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貴方だけに溺れたい
第5章  枷

「行ってきます」
「悪いわねー。胡瓜のお礼も言っておいてね」
「はい」

翌朝、葵は多代から渡された"お返し"を持って宮本家へと向かった。
手にはビニール袋いっぱいに詰め込まれた大量のピーマン。
出掛ける間際に玄関先で頼まれた"急なお使い"ではあるが、葵にとっては昨夜から予想していた事だった。

しかし毎度の事ではあるけれど、サンダルを履いて5分で済むような用事の為に、何故いちいち『いま手が放せないから』という理由を加える必要があるのだろうと思う。
気を使ってくれているのか、後ろめたさを感じているせいかは知らないが、葵にとっては姑同士の"お返し合戦"の駒にされるよりも、無意味な言い訳を聞かされる方がよっぽどストレスなのだ。

『葵ちゃんこれからウォーキング?ついでにこれ、宮本さん家に持って行ってくれる?』程度で良くない?
毎回毎回『今、梅干しを~』とか『糠漬けが~』とか『お父さんに~』という白々しい言い訳をするところは、本当に親子そっくり……。

とりわけ今日は気分も優れない。
些細な事でもイライラしてしてしまうのは睡眠不足のせいかもしれないけれど、陽射しは弱いが蒸し風呂のような高湿の空気が、昨夜から続く混沌とした気持ちをより悪化させているように思えた。

宮本家との距離は直線なら凡そ60メートル。
ほぼ中間にある十字路を渡って真っ直ぐに進めば、宮本家はその通りの突き当たりにあった。

しかし葵が宮本家に向かう場合は十字路で右に曲がり、ひとつ先の脇道を使って反対側の道に出るようにしていた。
何故なら直近の道なりには竹村家があり、たとえ本人に出会す事が無くても、わざわざ家の前を通って不快な気分を思い出したくも無いから。

そんな思いをするくらいなら、たとえ遠回りでも、雑草だらけの空地や、幽霊が出るという曰く付きの空き家の並ぶ脇道を歩いた方がマシだと思える。

蝉の声だけしか聞こえないような閑散とした道ではあるけれど、葵にとっては朝の8時に現れるような幽霊よりも、何を考えているかも分からないような人間の方が、よっぽど不気味で恐ろしい存在だからだ。



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