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助教 沙霧
第6章 仮面の日常
 午後からの修士論文中間発表会。沙霧は審査役の一人として、最前列の席に座っていた。
 発表者が壇上で緊張しながら、平安文学における空間表現について論じている。沙霧は手元のノートに細かな文字を走らせながら、その論理の穴を冷酷なまでに分析していた。

「……以上の理由から、私は『枕草子』における雪の描写は、単なる美学的観察ではなく、権力構造の可視化であると考えます」

 発表が終わると、会場に沈黙が流れた。沙霧はゆっくりと手を挙げる。

「今の発表について一点、確認させてください。貴方は権力構造の可視化と仰いましたが、清少納言が『香炉峰の雪』を語る際、そこに介在する『中宮定子との暗黙の合意』をどう定義しますか? 言葉にされない、しかし肉体的なまでの主従関係の充足が、その空間表現の前提にあるとは考えられませんか?」

 沙霧の質問は鋭く、容赦がなかった。発表者は言葉に詰まり、額に汗を浮かべる。
 その光景を見ながら、沙霧は自分自身の言葉に、奇妙な眩暈を覚えていた。

 ――主従関係の充足。

 知的な文脈で語っているはずのその言葉が、今の彼女の中では全く別の、淫靡な意味を持って響き渡る。壇上の学生を追い詰めているようでいて、実は、自分自身を言葉の檻に閉じ込め、首輪を嵌めているような感覚。論理という鞭を振るいながら、同時にその鞭で自分の肉体を打ち据えているような矛盾。
 
 発表会が終わると、教授から賞賛の声をかけられた。

「瀬川君、相変わらず厳しいね。だが、あの指摘は本質を突いていた」
「ありがとうございます。まだ私自身の考察も不十分ですが」

 沙霧は丁寧に頭を下げ、謙虚な助教を演じる。その間も、誉からのメッセージが頭の中から消えることはない。

『貴女はどれほど長く、その孤独な檻の中に自身を閉じ込めてこられたのでしょうか』

 周囲の尊敬、将来への期待、学問的業績。それらすべてが、彼女を閉じ込める「高貴な檻」の格子に見えた。
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