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蜜会…春の揺れ
第1章 春の揺れ
 6

「今夜は遅くなるから、夕食はいい……」
 夫からの、朝の出掛け際の言葉。

 わたしは朝食の後始末を他所に…
 慌ててシャワーを浴びる。

 それは、少しでも早く昨夜の感触を…
 ううん、触れられた自分を消し、洗い流したかったから。

 いつもより強いフレグランスを、重ねていく…

「あ…」

 鏡に映る、右肩の痕…
 昂ぶりによる、夫の噛み痕の紅。

『せっかくだから…』

 蘇る、5年振りの感触…
 5年ぶりの距離。

 そして5年分の空白…
 埋まったわけではなく、ただ、上からなぞられただけ。
 
 そして、昨夜だけは、触れられたくはなかった、あの想い…

『あんなの、初めて見たよ…』
 昨夜の、下着への嫌みを耳元に囁き…
 そして抱きながら、左手指を確かめるかの様な気配。

 そして、唇の嫌悪感…
 何度も、何度も、繰り返し、歯ブラシで磨いてしまう。

 消したいのは、感触ではなく…
 記憶のほうなのに。


「はぁぁ………」
 鏡を見つめ、ため息を漏らしてしまう…

 昨夜で、終わるはずだった…
 そう決めていたはずなのに。
 
 むしろ…
 また、つながってしまった。
 
 切り離していたものが、
 同じ場所に重なってしまった。

 考えるのをやめ、身支度を整える。

 それでも、病院に行かなくてはならず…
 現実は、止まらない。

 タクシーの中でも、揺らぎはまとまらないまま…
 景色だけが流れていく。

「○○○円です」

「はい…」

 支払いのために財布を開くと…
 
「ぁ……」
 
 白い紙が、目に入る。
 
 颯太の名刺ーー

 指先に触れ…
 別れ際の甘い言葉が、蘇る。
 
『待ってるから…』

『またな…』

 胸の奥が、静かに揺れる。

 昨夜、本当は…
 
 あのまま、行くはずだった。
 

 全部、置いて…
 
 全部、切って…

 そうするつもりだったのに。

「ふぅぅ……」
 エントランスから、病院を見上げる。
 
 捨てるなら、逃げるなら、後ろを向けばいい…
 だけど、現実は、ここにある。

 先にやらなくちゃならないことがある…

 早く、荷物を置いて…
 彼に電話するんだ。

 昨夜の続きを消すために…
 
 また彼に抱かれ、余韻を消したい…

 もう、そうするしか…

 心を保てない―――



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