- 小
- 中
- 大
- テキストサイズ
恋いろ神代記~神語の細~(おしらせあり)
第4章 傘爺
老いた足でもう一度数歩を進み、老いた手で玄関扉を──今日は外から開く。
靴箱の上には、美しく飾られた名前も知らない花。一度だって、私はそれを妻に問うこともなかった。つまらない男だった。怠惰で、傲慢な男だった。
でも今日は、ようやくそれもできると少しだけ笑いながら、綺麗に掃かれた三和土(たたき)の片隅にある傘立てに傘を戻す。ゆっくり。ゆっくりと。
古ぼけた水色の傘。
持ち手の、丸くなった部分を何度か撫でる。ようやく戻ってきたよ、と幼い子にするように、優しく撫でる。
それがいなくなった娘との、最期の別れ。もう二度と──触れることはない。
さよなら。
……さよなら。
居間と、その先の台所に目を遣れば、なんだか機嫌がよさそうな鼻歌も聞こえてきた。無造作につけられたような、とりとめの無い話題を報じるテレビの音と混ざっている。
そこに加わる軽快な包丁の音、水道の音。
かつては何も感じることができなかった、日常の一つの気配。なんて尊いものだったのだろう。
きっと洗濯物も綺麗にたたまれて、今頃気付いたのかと、不甲斐ない私を彼女はまた愛しく詰(なじ)ってくれるのだろう。
靴を脱ぎながら、ようやく私はそれを口にした。
「──ただいま」
2022.8.29
靴箱の上には、美しく飾られた名前も知らない花。一度だって、私はそれを妻に問うこともなかった。つまらない男だった。怠惰で、傲慢な男だった。
でも今日は、ようやくそれもできると少しだけ笑いながら、綺麗に掃かれた三和土(たたき)の片隅にある傘立てに傘を戻す。ゆっくり。ゆっくりと。
古ぼけた水色の傘。
持ち手の、丸くなった部分を何度か撫でる。ようやく戻ってきたよ、と幼い子にするように、優しく撫でる。
それがいなくなった娘との、最期の別れ。もう二度と──触れることはない。
さよなら。
……さよなら。
居間と、その先の台所に目を遣れば、なんだか機嫌がよさそうな鼻歌も聞こえてきた。無造作につけられたような、とりとめの無い話題を報じるテレビの音と混ざっている。
そこに加わる軽快な包丁の音、水道の音。
かつては何も感じることができなかった、日常の一つの気配。なんて尊いものだったのだろう。
きっと洗濯物も綺麗にたたまれて、今頃気付いたのかと、不甲斐ない私を彼女はまた愛しく詰(なじ)ってくれるのだろう。
靴を脱ぎながら、ようやく私はそれを口にした。
「──ただいま」
2022.8.29