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花菱落つ
第9章 生生流転
「泣いてくれるのか。私のために涙を流すのはお前だけだ」

 正室の松は別れる時まで涙を見せなかった。勝ち気で気丈な性格と大名家の姫という生まれが、義信の辿るであろう運命を受け入れ涙を流すことを己に許さなかった。

「これを」

 凪は懐から小さな入れ物を取り出した。入れ物の蓋には金象嵌での丸に二つ引きの家紋が施されていた。

「松の物か」

 今川家は足利家の流れを汲む名家であり、家紋も足利家と同じ物を使用していた。義信に縁の深い人物の中で丸に二つ引きの道具を持つものは正室の松しかいない。

「はい。これを義信樣にお渡しするように仰せつかっておりました」

 渡すまで二年もの月日が経ってしまったが、無事渡すことができて凪は胸を撫で下ろした。二年の間、凪は甲斐の国を出て様々な国を巡った。武蔵、相模、そして駿河。駿河では密かに今川氏真とも接触した。義信正室の兄であり義信の従兄弟でもある氏真は、正室とよく似ていた。

 義信が入れ物の蓋を開けると中には紅が半分ほど入っていた。灯りに透かすと緑に光る最上の紅だ。義信は紅をすくい、武骨な指で凪の唇にそっと塗った。

「ふむ。似合うな」
「何を……」
「男の私が紅をつけてはおかしかろう」

 そしてあることに気付き、くすりと笑った。

「そういえばそなたも男であったな」

 凪は困ったような顔で微かに笑った。笑った拍子に目尻に残っていた涙が零れて流れ落ちた。
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