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花菱落つ
第9章 生生流転
「その紅を見るとどうしても松のことが思い出されてならぬ。だが、もう松の顔すらあやふやにしか覚えてはおらぬのだ。覚えているのはその紅の色だけだ」

 正室とは二年前信玄によって離縁させられた。どんな顔をしてどんな声をしていたのか。少しずつ月が欠けるように記憶も欠けてゆくが、鮮やかな紅は義信の脳裏に焼きついていた。

 凪は素早く義信に顔を寄せ、口づけた。正室の紅が義信の唇に移って染まる。

「凪、一体何を……」
「この紅は奥方樣の物。せめて私の唇だけでも、奥方樣を偲ぶよすがになさってくださいませ」
「凪、いや松……」

 義信は凪の唇に食らいついた。紅い唇を何度も執拗なまでにねぶる。凪は荒ぶる義信を静かに受け入れた。二年前、同様に猛る義信に組み敷かれた時は恐怖しか感じなかったが、二年の時を経て大人びた凪の心に浮かぶのは、恐怖ではなかった。
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