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どうか、その声をもう一度
第5章 ひびのおと
『ねえ、秀治。他のなにを犠牲にしてでも叶えたい夢ってある?』
波打ち際をのんびりと歩いていた沙英はふいに立ち止まったかと思うと俺の方を振り返らずに言った。
距離を詰めて隣に並ぶ。水平線を見つめる横顔。凛と澄んで、きれいだった。でも、どこか物悲しさが浮かんでいる。
『俺は特にないな。毎日毎日、同じことの繰り返し』
そっか、と答えた声はとてもか弱く震えていた。名前を呼びながら肩に触れる。こちらを向いた沙英の顔は真っ黒に塗り潰されていた。
「………!」
目を開いた時、広がる光景は乱雑に散らかったままの店のバックヤードだった。荒い息を押さえつけるように唾を飲み込んで浮いた身体をパイプ椅子に沈めた。溜息を吐くと鈍いノックの音が響く。
「秀治さん、事件です。やばいです」
「俺はさ、この疲労感の方が事件だよ」
勢いよく開かれたドアから姿を見せた諒はだらりと椅子に身体を預ける俺を見て、ちゃんと休んだんすか?と眉を潜める。
新店のオープンから9日が経った。休みを取る筈だった日には本社に呼び出され、遅れに遅れたシュトーレンの試食会に参加。8時のオープンに間に合わせるためには6時には店に着いていないといけない。前の店よりは自宅から近くなったとはいえ、空がまだ暗い時刻に家を出る日々だ。
出だしは好調で閉店時間を待たずしてパンが売り切れることもあるが、だからといって早く帰れるわけではない。翌日の仕込だの、営業日報だの、棚卸しだのととにかくやることが山積みだった。もう1人配置される筈だった社員が急な訃報で田舎に帰ってしまったために俺が1人でこなさなければならなかった。
「少しは寝れたよ。ありがとな。で、事件がなんだって?」
嫌な夢見たけどな、とは言わない。
諒はアルバイトという立場でありながら副店長ばりの働き振りで俺をサポートしてくれている。今も、ちょっと休んでくださいと言ってくれた諒に甘えてバックヤードで20分ほど仮眠を取っていたところだった。
妙に重たい瞼をこすりながら立ち上がり、簡素な事務机に放ってあった黒いサロンを手繰り寄せる。