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嫌がらせ
第1章 嫌がらせ
来年30歳になる────
私、杉本 千鶴(すぎもと ちづる)は、つい先日、大切なものをひとつ、失った。
「退院おめでとうございます」
入院病棟の出口で、最後の別れに看護師から花束を渡された私は、きっと、全然うまく笑えていなかっただろう。
お世話になりました────と、とりあえず頭を下げる。隣にいた父も、黙って深々とお辞儀をしていた。
何ヶ月ぶりかに味わった外の空気は冷たかった。二月だから仕方がないのかもしれないが、私は思わず肩を竦めた。
入院生活というのは、季節感覚が鈍りやすいものなのだ。
「千鶴」
静かに横を歩く父が、ぽつりと私の名前を呼んだ。
「お前……今日は何か予定があるのか?」
退院という特別な日に、他に予定を入れる人間なんているのだろうか。
私が視野の狭い人間だからなのか、そこまでしてスケジュール帳を文字で埋めつくしたい欲求はない。
ない、と答えると、そうか、と父が呟く。
「これから荷物を置きに家に戻るが……その後食事に行かないか?」
荷物、というのは、私の入院時の生活用品だ。主に衣類。今、父の肩から提げられている大きなバッグに詰め込まれている。
「食事……? え、二人で……ってこと?」
私は驚いた。何せ、父が私に何か誘うなどという事象は、今まで起きたことがないからだ。
それでも最終的に私は了承した。
正直に言ってしまえば、気が乗らなかった。
しかしどうせ、家にいたところでやることはないし、来月から仕事復帰をするのに少しでも体力をつけておきたいとも思っていたところだ。
ただ────気まずいというだけの話であって。