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胸懐の本棚
第1章 胸懐の本棚
最後の寒波が居座ったせいで今年は春の到来が遅かった。
四月も半ばを過ぎたというのに、台所の窓から見える隣家の桜にはまだ花が残っている。
哲夫は慣れた手つきで茶筒をふるい、ときおり散りこぼれる桜の花びらから目を移して、急須に湯を注いだ。
丸盆にのせて居間へ行くと、美里の位牌に長らく手を合わせていた姉の京子が、いそいそと座卓へ膝をすすめてきた。
京子は毎月、美里の月命日に哲夫の住まいへやってきて、夕食の仕度までして帰る。
弟思いの姉は、この十年のあいだ弟嫁の追供を欠かしたことがない。
『いっつも、すまんなァ』
姉の住む大正区から大阪北部の南千里までは、市バスと地下鉄と阪急電車を乗り継がねばならない。
面倒な道のりを労う哲夫に、茶をすすった京子は教えさとすように顔をしかめる。
『そんなん、エエのよ。
それよりあんた、そろそろお嫁さん貰うこと考えてへんの?』
美里の七回忌が過ぎたころから、哲夫にはそんな問いかけが多くなった。
再婚のすすめは、弟の身辺を腐心する姉の忠告にも聞こえる。
『あんまり、考えてへんなァ』
タバコに火をつけた哲夫は、(また始まったで)と思いつつ、気だるそうに首をめぐらしてライターを置いた。
生来きれい好きで、独り暮らしの家の中は汚れようもなく、炊事洗濯もいとわしく感じない。
女の肌を恋しく思わないではないが、性的欲望もかつての勢いを失って年齢なりに落ちついた。元々が淡白な性質(たち)ということもある。
しいて言うなら、無人の家に帰りついて、暗闇へ「ただいま」と声をかけてしまうことだろうか。あれはさすがにやるせない。
とはいえ、日常のあれやこれやをトータルしてみて、特に困ってへんなァ、というのが哲夫の本意である。
むろん再婚に熱心な姉の前で、そうしたことは口にしない。
哲夫は人の厚意に水をかけるようなことができない人間である。