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胸懐の本棚
第1章 胸懐の本棚
哲夫が事務所へ着くと、真紀はすでに出勤していた。
朝はいつも早めに出てきて、事務所内のデスク廻りを拭き清め、給湯スペースやトイレを清潔にし、朝食を摂らずにやってくる哲夫のためにブラックコーヒーを用意する。
業務外のそうしたことを哲夫が強いたことはないが、いつのまにか真紀の習慣になっていた。
いつものように目覚ましのコーヒーを淹れてくれた真紀に、哲夫は郵便物を繰っていた手を止めて声をかけた。
『高田さん。すまんかったなァ』
コーヒーの湯気の向こうで、なんの話でしょうか? という顔つきの真紀が、きょとんと首をかしげた。
いつもと変わらない真紀にいつも以上の親しさを感じ、哲夫は胸に迫るものをおぼえた。
(きのう姉から聞いたんやけど―――)と言いかけて、朝っぱらから持ち出す話ではないだろうと思いなおし、
『あ、いや。コーヒーや。いつもありがとう』
と、続く言葉をにごした。
『えらい改たまらはって』
くすりと笑った真紀は、その笑顔をたたえたままパソコン画面へ向き直った。
キーボードを叩きながら、ときおり、ひっ詰め髪からこぼれた毛を耳に掛けなおす仕草には、いよいよ熟しはじめた年増女の艶っぽさが漂っている。
耳元には小粒のシルバーが光り、その小さな環が音もなく揺れるのを見ていると、哲夫はいつも、催眠術にかかるように、かつてそこに座って同じ作業をしていた美里を胸苦しいまでに思い出してしまう。