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胸懐の本棚
第1章 胸懐の本棚
そんなふうに、生前の妻がいつまでも生々しく胸裏に甦るのは、己の死を悟って綴ったのであろう美里からの短い手紙の筆跡が、哲夫の記憶に濃厚な味つけをしているからだった。
―――いい人ができたら、あたしのぶんもシアワセになって。
たった一行だけ、震える文字で、絞り出すように書かれてあった。
病状が悪化の一途をたどり、声までも失った美里が最後の力を指先に託してしたためたものだった。
息を引き取った美里の手帳からこぼれ落ちた紙片は、それまでどうにか気丈に振る舞ってきた哲夫を、声の枯れるまで泣かせた。
妻の愛をもっとも身近に感じ、未来に絶望したあの日のことを、哲夫は今も忘れていない。
美里に癌が見つかってから亡くなるまで、たったの五ヶ月だった。
何ごとにも辛抱する性格が発見を遅らせ、若さが病気の進行を助長した。
病院のベッドに臥せた美里は、日に日に体力を失っていきながらも、新しい税理士とうまくやれているか、洗濯物をたたんでいるか、食事はできているかと、哲夫の日常を気づかい、最後はいつも、自分が病気になってしまったことを微笑みまじりに詫びていた。
放射線も抗がん剤も医師の狙い通りに効果が表れず、ついに余命を言い渡されたとき、哲夫の胸に鉄球が落ちた。
そして美里は、それ以上の治療を望まなかった。
「あたし今なら、もし明日死んだとしても、
楽しい人生やったなぁって思えそうやねん」
一秒でも長く生きていて欲しいと望んでいた哲夫も、これには言葉が出なかった。
彼自身が心情を言葉にするには、途方もない数の言葉が必要なようにも思われたし、たったひとことで済みそうでもあった。