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お嬢様の憂鬱(「ビスカスくんの下ネタ日記」サイドストーリー)
第10章 痛みの問題
 動きの速さ、動くきっかけ、どう動きたいのか。
 そういった全てを、ビスカスは見通して居るのでしょうか。ローゼルが何にも邪魔されずに自由に動いて踊れる様に、指先や掌や腕の動きで、行きたい先を次々と繋いで、受け止めて整えてくれました。
 二人で公式に踊ったのは、ローゼルの背がビスカスを追い越す直前の競技会の時だけです。その競技会で優勝した後、ビスカスは遊びや誰かに教える時以外、公的な場で誰かと踊った事は、一度も有りません。
 今日も突然タンム卿から頼まれただけで、打ち合わせをした訳でも、練習した訳でも無いのです。それなのに、まるで昨日までずっとそう踊っていたかの様に、音がなくても体が触れなくても、何の苦もなく踊れています。

(……息をするみたいに、楽に動ける……)

 それは、ひとつの無理も無く、自分を抑える事も無く、相手のしたい事がすらすらと分かり、自分のしたい事は口に出していないのに受け止められて、自分だけで踊る時より高められる様な躍りでした。
 ローゼルは、泣きたくなりました。
 今まで自分の居た場所は、なんと幸福な場所だった事でしょう。普通の事だと思っていたその場所は、ビスカスが居てこそ築き上げられていた場所でした。

「……ここから、離れるのね。サクナ様から聞いたわ」
「ええ。離れはしますが、お困りの時は、いつでもお助けに参りますよ」

 向かい合って踊る振り付けの時に小声で話し掛けると、ビスカスも小声で微笑みながら答えました。

「もっとも、ローゼル様にはご夫君様がいらっしゃいますから、私奴の出番など無いとは思いますがね」

(ビスカス……やっぱり、もう、お嬢様って呼んでくれないのね)

 ローゼルは、婚約式が始まってから、ビスカスが自分を「ローゼル様」と呼んでいる事が気になっておりました。
 一度目は挨拶だから畏まったのかと思いましたが、二度目の踊りの誘いの時にも同じように呼ばれて驚き、三度目に呼ばれて手を取られた時は、現実感が無かった程です。

 ローゼルは、今日はずっと笑っておりました。
 サクナに約束しましたし、ビスカスには笑顔の自分を憶えて置いて欲しかったからです。

 (だけど、少しくらい感傷的になっても、良いかしら)

 ビスカスはもう、自分をお嬢様と呼んではくれない積もりなのです。そう思うと、ローゼルはますます泣きたくなりました。
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