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いつかの春に君と 〜 番外編 アンソロジー集〜
第1章 三日月夜にワルツを
昨日、母が死んだ。
士官学校の射撃の教練中に呼び出しがかかり、市ヶ谷の家に戻った時には、母の貌には既に白い布がかけられていた。
傍らにはさめざめと泣く家政婦がいた。
「…奥様は最期は全くお苦しみもなく、静かにお亡くなりになられました…」
家政婦の言葉に、有馬伊織は安堵した。
母は以前から胸を病んでいて、昨年の士官学校の入学式に来るのがやっとだった。
入学式の際に、退場する伊織を嬉しそうに見送る母の儚げな笑顔が、最期の姿だった。
夏季休暇も、暮れや正月休みにも伊織は家に帰らなかった。
学校の特別教練に参加していた。
母の胸の病はかなり進行し、郊外のサナトリウムで治療していたが、伊織に伝染すことを恐れた母は頑なに見舞いを拒否していたからだ。
「伊織坊っちゃまのことを、最期までご心配されていました…」
最期は筆を持つことも出来ず、付き添いの家政婦の口述筆記の手紙のみが伊織のもとに届けられてきた。
母はまるで少女のような清らかな素顔で眠るように亡くなっていた。
死に顔を見つめる伊織に、先ほどから部屋の隅に控えめに座っていたスーツ姿の男が声を掛ける。
「…この度は大変にご愁傷様でございます。心よりお悔やみ申し上げます。
…こんな時ではございますが、伊織様のお父様よりのお悔やみと…こちらはお見舞い金、そしてこの家の新しい登記簿謄本でございます。全て伊織様の名義に書き換えてございます。
伊織様の生活費、学費はこれまで通り士官学校をご卒業され、職にお就きになるまではきちんとお支払い致しますので、ご安心くださいませ。また、お母様のご葬儀費用はご心配なさいませんように」
一、二度顔を合わせたことがある父親の会社の顧問弁護士はまるで何かの口上のように慇懃に述べると、深々と頭を下げて見せた。
「…あの人は来るのですか…」
無表情のまま呟くように尋ねる。
「…生憎、お父様はご多忙の為、ご葬儀にはご出席なさいません。お花とお香典を預かってまいりました」
弁護士は淡々と答えた。
…子どもをもうけただけの愛人の芸者に対する扱いなど、その程度なのだろう。
それでも伊織を認知し養育費や学費を払い続け、別宅を与えてくれただけ、世の浮気男よりは大分ましなのかも知れない。
伊織は母の貌に布を被せ直し、告げた。
「分かりました。ありがとうございます。もう結構です。どうぞお引き取り下さい」
士官学校の射撃の教練中に呼び出しがかかり、市ヶ谷の家に戻った時には、母の貌には既に白い布がかけられていた。
傍らにはさめざめと泣く家政婦がいた。
「…奥様は最期は全くお苦しみもなく、静かにお亡くなりになられました…」
家政婦の言葉に、有馬伊織は安堵した。
母は以前から胸を病んでいて、昨年の士官学校の入学式に来るのがやっとだった。
入学式の際に、退場する伊織を嬉しそうに見送る母の儚げな笑顔が、最期の姿だった。
夏季休暇も、暮れや正月休みにも伊織は家に帰らなかった。
学校の特別教練に参加していた。
母の胸の病はかなり進行し、郊外のサナトリウムで治療していたが、伊織に伝染すことを恐れた母は頑なに見舞いを拒否していたからだ。
「伊織坊っちゃまのことを、最期までご心配されていました…」
最期は筆を持つことも出来ず、付き添いの家政婦の口述筆記の手紙のみが伊織のもとに届けられてきた。
母はまるで少女のような清らかな素顔で眠るように亡くなっていた。
死に顔を見つめる伊織に、先ほどから部屋の隅に控えめに座っていたスーツ姿の男が声を掛ける。
「…この度は大変にご愁傷様でございます。心よりお悔やみ申し上げます。
…こんな時ではございますが、伊織様のお父様よりのお悔やみと…こちらはお見舞い金、そしてこの家の新しい登記簿謄本でございます。全て伊織様の名義に書き換えてございます。
伊織様の生活費、学費はこれまで通り士官学校をご卒業され、職にお就きになるまではきちんとお支払い致しますので、ご安心くださいませ。また、お母様のご葬儀費用はご心配なさいませんように」
一、二度顔を合わせたことがある父親の会社の顧問弁護士はまるで何かの口上のように慇懃に述べると、深々と頭を下げて見せた。
「…あの人は来るのですか…」
無表情のまま呟くように尋ねる。
「…生憎、お父様はご多忙の為、ご葬儀にはご出席なさいません。お花とお香典を預かってまいりました」
弁護士は淡々と答えた。
…子どもをもうけただけの愛人の芸者に対する扱いなど、その程度なのだろう。
それでも伊織を認知し養育費や学費を払い続け、別宅を与えてくれただけ、世の浮気男よりは大分ましなのかも知れない。
伊織は母の貌に布を被せ直し、告げた。
「分かりました。ありがとうございます。もう結構です。どうぞお引き取り下さい」