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いつかの春に君と 〜 番外編 アンソロジー集〜
第1章 三日月夜にワルツを
有馬伊織は財閥系の大銀行の創業者の息子と、赤坂の芸者の間に生まれた。
もちろん彼には正妻がいた。
…父親は伊織の母を愛人として囲っていたのだ。
しかし父親は伊織が生まれると、正妻の逆鱗を恐れ母親の元に通うことをぴたりとやめた。
要は、母親と伊織を捨てたのだ。
だが、良心の欠片はある男だったらしく、伊織を認知し、職業に就くまでの養育費、生活費、そして家政婦を付ける約束を弁護士を通して交わして去っていった。
子どものように頼りなげな母親は、父親に捨てられると直ぐに体調を崩し、寝たり起きたりの生活になった。
…伊織の物心つく頃には胸を病み、長期の入退院を繰り返していた。
伊織は、家政婦に育てられたようなものだった。
幼稚園の入園式も、小中学校の入学式も家政婦が来てくれた。
潤沢にある養育費のお陰で、何不自由ない生活を送れたことは幸いだった。
家政婦の千代は優しく品の良い初老の女で、母親不在でも伊織が寂しい思いをしないで済むように心を砕いてくれた。
常に上質な服を誂えて貰え、弁当も豊かなものを持たせて貰えた。
だから、母親がいなくても寂しいと思ったことはなかった。
弁護士が帰ったあと、さめざめと泣き続ける千代に、伊織は告げた。
「今までありがとう。千代、母さんも千代がいたから安心して天国に行けたと思う。
僕はもう大丈夫だから千代は、他の勤め先を探して。
千代は優秀だからどんなお屋敷でも引く手あまただと思う。
…少ないかもしれないけれど…今までのお礼だ」
そう言って、伊織は弁護士が持参した見舞金をそのまま千代に渡した。
千代は慌てて辞退した。
「これは旦那様が伊織様にとお持ちになったお見舞い金です!頂くわけにはまいりません」
伊織は淡々と首を振った。
「千代に貰って欲しい。僕は学業優等生で奨学金が貰えることになったんだ。だからお金に不自由はしない。
…あと二年で士官学校も卒業だし」
「ご卒業されたら、どうなさるのですか?」
伊織は初めて青年らしい笑みを漏らした。
「海軍に入る。海軍航空部隊の士官になるんだ。僕は飛行機乗りになりたいんだ」
「…まあ…!」
感極まったように千代が声を詰まらせる。
長年の恩人の千代に伊織は頭を下げた。
「千代、今までありがとう。世話になった。
千代も息災に過ごしてくれ」
家政婦はこの寡黙で心優しい青年の将来を鑑み、静かに涙した。
もちろん彼には正妻がいた。
…父親は伊織の母を愛人として囲っていたのだ。
しかし父親は伊織が生まれると、正妻の逆鱗を恐れ母親の元に通うことをぴたりとやめた。
要は、母親と伊織を捨てたのだ。
だが、良心の欠片はある男だったらしく、伊織を認知し、職業に就くまでの養育費、生活費、そして家政婦を付ける約束を弁護士を通して交わして去っていった。
子どものように頼りなげな母親は、父親に捨てられると直ぐに体調を崩し、寝たり起きたりの生活になった。
…伊織の物心つく頃には胸を病み、長期の入退院を繰り返していた。
伊織は、家政婦に育てられたようなものだった。
幼稚園の入園式も、小中学校の入学式も家政婦が来てくれた。
潤沢にある養育費のお陰で、何不自由ない生活を送れたことは幸いだった。
家政婦の千代は優しく品の良い初老の女で、母親不在でも伊織が寂しい思いをしないで済むように心を砕いてくれた。
常に上質な服を誂えて貰え、弁当も豊かなものを持たせて貰えた。
だから、母親がいなくても寂しいと思ったことはなかった。
弁護士が帰ったあと、さめざめと泣き続ける千代に、伊織は告げた。
「今までありがとう。千代、母さんも千代がいたから安心して天国に行けたと思う。
僕はもう大丈夫だから千代は、他の勤め先を探して。
千代は優秀だからどんなお屋敷でも引く手あまただと思う。
…少ないかもしれないけれど…今までのお礼だ」
そう言って、伊織は弁護士が持参した見舞金をそのまま千代に渡した。
千代は慌てて辞退した。
「これは旦那様が伊織様にとお持ちになったお見舞い金です!頂くわけにはまいりません」
伊織は淡々と首を振った。
「千代に貰って欲しい。僕は学業優等生で奨学金が貰えることになったんだ。だからお金に不自由はしない。
…あと二年で士官学校も卒業だし」
「ご卒業されたら、どうなさるのですか?」
伊織は初めて青年らしい笑みを漏らした。
「海軍に入る。海軍航空部隊の士官になるんだ。僕は飛行機乗りになりたいんだ」
「…まあ…!」
感極まったように千代が声を詰まらせる。
長年の恩人の千代に伊織は頭を下げた。
「千代、今までありがとう。世話になった。
千代も息災に過ごしてくれ」
家政婦はこの寡黙で心優しい青年の将来を鑑み、静かに涙した。