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爪先からムスク、指先からフィトンチッド
第3章 3 匂いの誘惑
 平和な日々を過ごし、帰宅しようとする芳香を後ろから薫樹が呼び止める。

「柏木さん、ちょっと待って」
「あ、兵部さん。な、何か」
「ちょっと食事に行かないか」
「えっ? 食事ですか?」
「用事でもあるの?」
「え、いえ。ありませんけど」

 早く帰宅したいが高圧的な態度を目の前にすると何も言えない。

「じゃ、行こう」

 靴を脱ぐことがないように祈りながら芳香はついて行った。


 大通りを抜け屋外にも席のあるカジュアルレストランに着いた。広々としたテラス席に案内され芳香はほっとして席に着く。

「この前はすまなかった。ご馳走するから好きなもの頼んで」
「え、そんな、別に、いいんですけど」

 少しだけ柔らかい雰囲気を見せる薫樹の顔を改めて見る。
眼鏡と白衣のせいで冷たそうに見えたが、実際は奥二重で三日月眉の優しい顔立ちだ。『匂宮』とのニックネームは伊達ではないなと平安貴族的なはんなりとした様子に芳香は納得する。

「食べないの?」

 チーズアラカルトを見つめるだけの芳香に薫樹は勧めてくる。(チーズかあ……。美味しそうだなあ……)

「えっと、あの」
「匂いを気にしてるのか」

 ふっと薫樹が優しく笑んだ。

「あ、はあ……」

 チーズをはじめ、できるだけ匂いのもとになりそうな刺激物は控えているが目の前の高級で芳しい香りが芳香を誘惑する。
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