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月の姫~夢占(ゆめうら)の花嫁~
第8章 復讐から始まる恋は哀しく~かすみ草~【後編】
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(本文から抜粋) 
少し動けば汗ばむほどの残暑にも拘わらず、殿舎の内の空気は、ひんやりとしていた。廊下を進み、淑媛が暮らしていた居室の扉を両手で押し開ける。
 主のいない室はガランとして、やけに寒々しく見える。王子は上座にぽつねんと置かれている文机に向かった。
 文机の上に、白い一輪挿しが置き忘れたようにある。既に萎れた薄紅の花が数輪、忘れられた淋しさを訴えかけるように残っていた。
「ーっ」
 燕海君は自分が淑媛に贈った花であると気づき、言葉を失った。瞳を閉じると、在りし日のあの女(ひと)の笑顔が蘇る。
 次に眼を開いた時、彼の前ー文机の向こうには淑媛が座っていた。蓮花の衝立を背に、薄紫の座椅子に座り王子に優しく微笑みかけている。
ー王の権力は自分の幸せのためではなく、民のために使うべきものです。どうか、ゆめ、そのことだけはお忘れにならないで。
 あのひとの言葉がありありと耳奥で聞こえる。
 ふっと淑媛のたおやかな姿が眼前から、かき消えた。王子は袖から小さな布きれを取り出し、ひろげた。紅い血に染まったそれは、淑媛が毒を飲んだ際、大量に吐いた血に濡れている。既に乾いてはいたけれど、血にまみれた手巾を見ただけで、彼女がどれだけ苦しみながら逝ったかが知れた。
 幼い王子は、何とかして淑媛の形見が欲しいと願った。彼女が使っていたもの、何でも良いから、あの人を偲ぶよすがが欲しいと保母尚宮に頼み込んだのだ。
 しかし、咎人として処刑され、廃妃となった淑媛の遺品はすべて処分されてしまっていた。それでも保母尚宮が手を尽くしてくれた結果、手に入られた唯一の遺品がこの血まみれの手巾であった。
 王子は淑媛の血を吸った手巾を頬に押し当て、眼を固く瞑った。
ー許して下さい。私は幼すぎて、何の力も持たず、あなたを救えませんでした。
 ひっくとしゃくり上げ、彼は手巾を握りしめた。したたり落ちる大粒の涙が血染めの手巾を新たに濡らす。
「私は必ず王になります。王になって、あなたの恨みを晴らして差し上げます」
 優しいあなたは、王の権力を自分のために使ってはならない、復讐など考えてはならないと言われた。でも、私は悔しくてならない。あなたのように優しい方がどうして故もなく殺されなければならなかったのか?
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