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海に映る月の道 〜last tango in Paris〜
第4章 Valet & Earl 〜従者と伯爵〜
「…その次は…」
老貴婦人のヘーゼルグリーンの瞳にやや切なげな色が宿る。

「…わたくしの初恋のひとと踊ったわ…」
「初恋のひと?
どんな方ですか?」
「…わたくしの領地の村の若き医師だったの。
貴方のように美しい黒髪をしていたわ。
瞳は…この夜空のように漆黒で澄んでいて…」
「…へえ…」
「…本当に美しいひとだったわ。
美しいだけでなく、貧しい人々のために病院を設立したりと情熱的で志の高いひとだったの」
老貴婦人の瞳はきらきら輝き、まるで少女のようだ。
「…わたくしはずっとそのひとに恋をしていて…たまに父が晩餐に招待して会えた時には嬉しくて嬉しくて口も聞けないくらいだったわ」
このさながらクイーンのような威厳を湛えたマダムが、可憐な女の子に見える。

「…素敵な初恋ですね」
…その恋は、実ったのかな…?
ふと気になる。
狭霧の心の内を読んだかのように、老貴婦人は寂しげに首を振った。
「…残念ながら、初恋は実らなかったわ。
今はそうでもないけれど、昔は医師は中産階級で…わたくしが属する貴族の世界とは身分が違っていたの。
もちろん、結婚なんて想像も出来なかった。
それは、彼も重々承知していたわ。
…だからね。
わたくしと彼の想い出は、バルコニーで踊ったワルツだけ。
たった一度の…けれど、永遠に忘れられない想い出よ」

「…バルコニーで…?」
老貴婦人は狭霧を見上げ、頷く。
ゆったりと音楽に身を任せながら、物語を紐解くように語り始める。
「…あれはわたくしが十八歳のこと…。
私には親が決めた婚約者がいたわ。
…家の繁栄のための結婚…。
貴族の娘の結婚なんて、それが常識だった。
…彼はアメリカの大学病院で新薬の研究をすることになって…それで、密かにわたくしを訪ねていらしたの。
そうして、彼はこう言ったわ。
『私は明日、アメリカにまいります。
もう二度と、貴女にお会いすることはないでしょう。
生涯の想い出に、一度だけワルツを踊っていただけませんか…』と」

…老貴婦人が、一瞬にして少女に還る。
シャンパン色の月明かりのもと、美しいふたりは、ただお互いを見つめ手を取り合い、踊っていた…。
…明日はもう会えない。
もう二度と会うことはない。
だから、この瞬間に、万感の想いを込めて。
美しく華やかな皇帝円舞曲の調べに、切ない恋の想いを託して。




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