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過去を塗りかえて
第1章 母の涙
2023年11月2日 PM4:00

「はぁ・・・」

ため息を一つ。
絵美が漏らした。

「どうしたの、ママ・・・?」
握った小さな手の少女が、顔を上げて聞いた。

「な、何でもない・・よ・・・」
力ない声を絵美は返した。

眉をひそめる曇り顔を、唯奈は心配そうに見つめている。
今年、五歳になる娘は幼いなりに母の苦悩を敏感に悟っていた。

保育園からの帰り道。
母と手を繋いで家路までたどる時間が、唯奈は大好きだった。

美しい母は唯奈の自慢で。
保育園の友達のママ達、みんなの中で一番だと思っていた。

「唯奈ちゃんのママ、綺麗ねぇ・・・」
友達も羨望の眼差しで話すほど唯奈の母、絵美は奇麗だと思う。

そんな母がため息をつくことを、幼い娘はボンヤリと知るようになる。
それは唯奈の父、宏が他人のように感じ始めた頃からであった。

五歳の唯奈にとって父の宏はたまに家にかえってくるオジサンだと思っていた。
事実、月に何日も見たことはない。

帰る度に唯奈を抱き上げ、大げさな声で呼びかける。

「元気にしてたか、唯奈ぁ・・・」
母とは違う臭い息で頬ずりをするのが、唯奈は堪らなく嫌だった。

大人になって、それがアルコールの臭いだと知るまでは父というものは臭い人だと、ずっと思っていたほどだ。

ママの甘い匂いの中で抱かれている幸せを娘は願う。
男が訪れることを、いつの間にか怯えるようになっていた。

だから、だろうか。
昨日、男が家にいて、二人が言い争いしている声に夜中に目を覚ました時。

唯奈は不安で心が押しつぶされそうになったのだ。

言い知れぬ恐怖が心を包んで。
幼子は大きな声で泣きだした。

「唯奈っ・・・」
駆け寄り、抱きしめる母の胸で唯奈は泣き続けた。

「ちっ・・・」
舌打ちする父の顔が残忍に歪んでいたことは、幼子は知る由もない。

只、男に愛が無いことは。
唯奈にもボンヤリと分かっていた。

「やっぱり、俺の子じゃないんだろう・・・?」
男は捨て台詞を残すと、家を出て行った。

言葉の意味が分からない幼子は、自分を抱きしめながら涙を流す母を心配そうに見上げるしかなかった。
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