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舞台の灯が消える前に
第2章 扉の向こう側

駅から少し離れた路地裏。古い倉庫のような建物の前で、奈央は立ち止まった。小さな看板に「劇団アネモネ」とだけ書かれている。見過ごしてもおかしくない、そんな静かな佇まいだった。
緊張で手のひらに汗をかく。ノックをする前に深呼吸を一つ。
扉を開けると、空気が変わった。
乾いた木の匂い、足音の吸い込まれる静寂、そして何よりも、誰かの“視線”のような空気の圧。
中では数人の若者が台詞を読み合っていた。声が交差し、沈黙が波のように寄せては返す。芝居とは、こんなにも体温のあるものだっただろうか。奈央はひとつ息を呑んだ。
「――あなたが、吉岡奈央さん?」
声が落ちた。振り返ると、奥からひとりの男がこちらを見ていた。
長身で、痩せぎす。スーツのような服に、足元は裸足。髪は無造作で、目だけがやけに印象的だった。あらゆる色を拒んだような灰色の瞳が、奈央をまっすぐ貫いた。
「はい……あの、見学を」
「見学なんて要らない。やる気があるなら台詞を読んで」
強引でもなく、優しさでもなく、その声には“決定”だけがあった。
気づけば、奈央は台本を手にしていた。
ページを開く。喉が乾く。声が出るかさえわからなかったのに、最初のひと言を発した瞬間、奈央の内側で何かが切り替わった。
――世界の音が、消えた。
呼吸の音。紙の手触り。自分の言葉が、耳ではなく“身体”に返ってくる感覚。
読み終えたときには、誰も何も言わなかった。
ただ、彼――演出家・西園寺だけが、静かに笑っていた。
「悪くない」
それだけで、奈央の体の奥に、火のような何かが灯った気がした。
その夜。帰宅してからも、体の芯が熱をもっていた。智也と過ごすベッドのなかでさえ、別の空気をまとう自分に気づく。
「今日、何かあった?」
智也の言葉に、奈央は笑って首を振った。
答えられなかった。まだ自分でも、その“何か”の正体がわからなかったから。
でも、あの男の目を思い出すたび、心のどこかが疼く。
それは恋ではない。けれど、もっと深い、もっとどうしようもない――
渇望に、似ていた。
緊張で手のひらに汗をかく。ノックをする前に深呼吸を一つ。
扉を開けると、空気が変わった。
乾いた木の匂い、足音の吸い込まれる静寂、そして何よりも、誰かの“視線”のような空気の圧。
中では数人の若者が台詞を読み合っていた。声が交差し、沈黙が波のように寄せては返す。芝居とは、こんなにも体温のあるものだっただろうか。奈央はひとつ息を呑んだ。
「――あなたが、吉岡奈央さん?」
声が落ちた。振り返ると、奥からひとりの男がこちらを見ていた。
長身で、痩せぎす。スーツのような服に、足元は裸足。髪は無造作で、目だけがやけに印象的だった。あらゆる色を拒んだような灰色の瞳が、奈央をまっすぐ貫いた。
「はい……あの、見学を」
「見学なんて要らない。やる気があるなら台詞を読んで」
強引でもなく、優しさでもなく、その声には“決定”だけがあった。
気づけば、奈央は台本を手にしていた。
ページを開く。喉が乾く。声が出るかさえわからなかったのに、最初のひと言を発した瞬間、奈央の内側で何かが切り替わった。
――世界の音が、消えた。
呼吸の音。紙の手触り。自分の言葉が、耳ではなく“身体”に返ってくる感覚。
読み終えたときには、誰も何も言わなかった。
ただ、彼――演出家・西園寺だけが、静かに笑っていた。
「悪くない」
それだけで、奈央の体の奥に、火のような何かが灯った気がした。
その夜。帰宅してからも、体の芯が熱をもっていた。智也と過ごすベッドのなかでさえ、別の空気をまとう自分に気づく。
「今日、何かあった?」
智也の言葉に、奈央は笑って首を振った。
答えられなかった。まだ自分でも、その“何か”の正体がわからなかったから。
でも、あの男の目を思い出すたび、心のどこかが疼く。
それは恋ではない。けれど、もっと深い、もっとどうしようもない――
渇望に、似ていた。

