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助教 沙霧
第4章 研究の日々(2)
 翌朝、大学へと向かう足取りは、昨日までとはどこか違っていた。

 冬枯れの景色が広がるキャンパスを歩きながら、沙霧は何度もスマートフォンの画面を確認しそうになる手を、コートのポケットの中で強く握りしめた。「誉」からの返信が来ているはずはない。昨夜、自分が返した言葉はあくまで事務的で、対話を強いるようなものではなかったのだから。

 研究室の自席に座り、分厚い『校訂 萬葉集』を開く。
 インクの匂いと古紙の湿り気が混じり合った、いつもの平穏な空間。だが、文字を追う彼女の意識は集中を拒み、たびたび紙面の上で霧散した。和歌の解釈を巡る冷徹な思考の隙間に、誉の指摘した「内なる渇望」というフレーズが入り込んでくる。かつては学術的なパズルとして解いていた恋歌の一節が、今は生々しい皮膚感覚を伴って、沙霧の身体に訴えかけてくるようだった。

「……瀬川先生、顔色が少し赤いですよ。暖房が効きすぎですか?」

 研究室の院生、佐藤が声をかけてきた。佐藤は真面目だけが取り柄のような男で、沙霧に対して密かな憧れを抱いていることを、沙霧も気づいている。沙霧は反射的に背筋を伸ばし、冷ややかな視線を彼に向けた。

「いいえ、別に。ただのぼせているだけです。気にしないでください」
「そうですか。……今日の先生、なんだか少し雰囲気が違って見えます。いつもより、その……柔らかいというか」

 佐藤の遠慮がちな言葉に、沙霧は心臓が跳ねるのを感じた。

「柔らかい? どういう意味かしら。私はいつも通りよ」

 刺すような拒絶の言葉を吐きながら、沙霧は内側の動揺を隠すために、わざとらしくページを捲った。

 (柔らかい)

 その言葉が、今の沙霧が心身ともに無防備になっていることの証左であるかのように響き、猛烈な羞恥が込み上げる。自分の内側の綻びを覗き見られたのでは……

 その屈辱と恐怖に沙霧は足早に席を立ち、研究室を出た。
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