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SAKURA(さくら)
第8章 五月  皐月めい
 4

「…まだ…話してはいないだけ…です……」
 そう、囁くと…

「………」
 彼は歩みを止め、息を飲み込み、一瞬にして背中が強張ったのが、見てとれた。

 このひと言で、立場が一瞬で変わった――

「…さ、奥で、専務がお待ちですよ……」

「………」

「まだ…大丈夫ですから……」

「………」
 彼は、振り向かない…
 ううん…
 恐くて、振り向けないのだろう――

 だって…
 もう完全に、わたしの掌の上で踊らされるのを…
 いや、踊らざるを得ないことが分かってしまったのだから。

「………」
 だから、もう…
 息も、呼吸も、止まったまま――

「さ…お待ちですから……」

 そう呟き、彼の背中を押すわたしの顔は…

 笑っていた――

 給湯コーナーの鏡に写っているわたしは…
 わずかに唇を舐めながら、笑みを浮かべていた。

 笑っていたのだ――

 もしかしたら、鬼の形相に顔を歪ませ、醜い顔になっていると思っていたのだが…
 笑っていた――

 恨み、辛み、という感情もなく…
 怒りさえも、まったく湧いてはいない。
 
 でも、笑みとは?…

「………」
 わたしは鏡を見ながら、自問自答する…

 え…
 わたしは、まだ、彼を愛しているのか?
 
 いや、違うはず――
 
「おい、めいくん、コーヒーがいいな」

「あ、は、はい、かしこまりました」
 迷走は一旦遮られ、わたしは慌ててコーヒーを淹れる。

 専務は砂糖、ミルク付き…
 彼は、ブラック…

「し、失礼します」
 コーヒーを配膳する。

「……っ」
 
 そうか…

 わたしは、専務の前のソファーに、小さく座っている彼を見た瞬間…
 自分の想いを、理解した。

 もはや、彼は、わたしという存在の中の…
『籠の鳥』と、同じなんだ。

 あの瞬間、あのひと言により…

 わたしは、彼を、いや、この先の彼の出世という、生殺与奪権のすべてを握ってしまったのだ――

 つまり、彼の将来は…
 わたしの想い次第という事になるんだ。

 だって、わたしは、彼の権力の上にいる、専務の、オンナ秘書なのだから…

 そう生きていくと、決めたのだから。

 だからわたしは、唇を舐めていたのだ…

 彼を見下ろしながら――

 初めて知った…

 権力は、甘くて、快感なのだと。



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