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あの店に彼がいるそうです
第8章 一体なんの冗談だ
 拓はスーツを返しにと事務室に行ったので、そこで別れて玄関に向かう。
 蒸れるような夜の熱気の中に出る。
 ネオンの明るさに目を細める。
「掃除ご苦労様」
「類沢さん!」
 開けた扉の傍らに立っていた影が光の元に現れた。
 手に持っていたものを渡される。
「あげる」
 見ると、紅茶サイダーの缶。
「えっ?」
「試しに買ってみたんだけど甘すぎてさ」
「飲みかけじゃないですか。頂きますけど」
 一口飲んで、唇をすぼめる。
「あん、まっ!」
「ね」
 類沢はクスクスと笑って歩き出した。
 結局飲むのは俺の使命らしい。
 冷たい缶を握り締めて口をつける。
 発泡感が喉を刺激する。
 後から来る紅茶の清涼感がまた甘さを引き立てる。
「どこで買ったんですか」
 追い付いて尋ねると、類沢は首を傾げた。
「……自販機?」
「なんで疑問形ですか」
 あの光る自販機で小銭を入れて買う姿が想像できない。
 連日数百万の酒を飲む男が、百円の缶ジュースを買うか。
「サイダーってさ、泡抜けると甘くなるよね」
「あー。それ美味しくないですよね。なんか気抜けちゃったみたいな」
「溶けたアイスみたいな?」
「それです! 違和感ある甘さ」
 ふっと笑んで、俺の肩を抱く。
「ハ、ルさん?」
 店から離れたので本名を避ける。
 しかし、類沢は気にも留めないように俺の額に口づけた。
「本当に……瑞希といると落ち着くよ」
 その優しすぎる声色に、俺は脳まで酔わされる気がした。

 家に着き、リビングのソファーに倒れる。
 ふんわりとした感触に癒される。
「寝ないでよ」
「寝ませんけどー……」
 上着を脱いだ類沢が隣の椅子に座る。
 脚を組んで、肘掛けに頬杖をついて。
「なに見てるんですか」
「瑞希」
「知ってますよ。なんで見てるんですか」
 クッションの隙間から類沢と目を合わせる。
 時計の音が遠くから聞こえる。
 瞬きも出来ずに、呑まれそうになるのを堪える。
「ドキドキしてるでしょ」
「してませんっ」
 ガバリと起き上ってクッションを抱える。
 だが、類沢は愉しそうに目線を逸らさず俺を見つめる。
 余裕ある、色づいた眼で。
 だんだん顔が上気していくのを感じる。
 俺の反応なんて全部わかった上で遊んでいるんだろう。
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