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あの店に彼がいるそうです
第6章 随分未熟だったみたい
 バタン。
 誰もいない。
 鏡の前に立ち、洗面台に両手をついて体重を預ける。
 落ち着け。
 深く息を吸うんだ。
 何度も自分に言い聞かせる。
 喉が開き、酸素が少しずつ体に入ってくる。
 首を締め付けるボタンを外す。
 鏡に写った鎖骨に散る華。
 そっと指で撫でる。
 髪を押さえると、耳にも痕が残っている。
 まるで、烙印みたいに。
「なに、考えてんだか……」
 体が熱くなる。
 静めなきゃ。
 蛇口を捻る。
 水音を聞き、眼を瞑る。
 少しずつ心拍が遅くなってくる。
 大丈夫。
 大丈夫だ、瑞希。
 次に鏡に写ったのは、いつもの俺。
 よし。
 大丈夫。

「客待たせちゃダメだよ」
 アカが通りすぎざまに囁く。
 見ると蓮花はグラスを片手に店内を見回していた。
 今日は白い羽のストールに真っ赤なドレスだ。
 髪はアップにして、キラキラ光る。
 ハリウッドにいそう。
 俺は急ぎながらも見とれた。
「すみません、お待たせ致しました」
 テーブルにドンペリが並んでる。
「ダメじゃない、待たせちゃ」
 アカと同じ台詞に頭を下げる。
 ヘルプについていた名前の知らないホストが去る。
 俺は恭しく隣に座った。
 途端に腿を撫でられる。
 百合の香りが鼻を掠めた。
「あの……」
「遅れた理由は? 答えによって入れるお酒を決めるわ」
 上目遣いに試す唇。
 この人、こんな人がなんで俺なんかを指名したのか未だにわからない。
「えっと……えと、頭冷ましに行ってました」
「はい?」
 蓮花が眉を上げ、それから破顔した。
 細い肩を震わせて笑う。
「蓮、花さん?」
 戸惑う俺の頬に手をかけた。
「あなたって面白いわ、素直で飾らないところが」
 それからくいっと俺の目線を合わせるように顔を下げられる。
「ホストとしては未熟者だけど、私は好きよ。なんだか惹かれるの」
 緊張とは違う。
 ぼーっと聴きしれてしまう。
 凄く名誉なことを言われた気がする。
 そう思わされる。
 この人の持つ空気は、油断したら呑み込まれるけど、厭に蠱惑。
「光栄です」
 知らなかった。
 この時、類沢があの蒼い眼で見ていたことを。
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