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作品集
第17章 平成28年9月1日
素晴らしいと思いました。
◆誰もが造りだせなかった真珠を世界で初めて人工的に生み出したのは日本人です。名前は御木本幸吉。
世界の真珠をリードする
ミキモトの創業者であると同時に、彼は偉大な発明家でもあったのです。
真珠は、貝類が体内に取り込んだ異物をカルシウムなどで包みこむことで生み出される宝石で、人工的に真珠を貝に作らせる技術は不可能だと考えられてきました。その常識を覆したのが御木本幸吉です。三重県鳥羽のうどん屋の長男として生まれた幸吉は、やがて天然真珠の魅力にとりつかれます。
「この美しい真珠を、なんとか人間の力で作り出すことができないだろうか……」真珠は、実際に貝を開けてみるまで形成されているかどうかを知ることはできない上に、真珠を見つけるために貝柱を切られて口を開けられた貝は、無残にも息絶えてしまうのです。
この事態をなんとかしたいと幸吉はアコヤ貝の生態調査と真珠養殖のための研究を開始。1890年、幸吉32歳、妻のうめが26歳の時のことでした。海を利用するために、地元漁業者や漁業組合との交渉、役所との折衝など、技術以外の面でも大変な苦労がありました。
ところが、1892年、幸吉の養殖場に赤潮が押し寄せてきて、養殖中のアコヤ貝がすべて死んでしまったのです。再出発の資金をつくり研究を続けるのです。そしてついに1893年、真珠形成実験を行っていたアコヤ貝の中に、半円真珠が出来ているのを発見します。自信を得た幸吉は、さらに研究を重ね、1896年に真珠養殖法の特許を取得しました。……またも絶望……。
幸吉の良き理解者であり、最愛の妻であるうめが32歳の若さで病死してしまいます。それから妻の位牌をなでては感謝の報告をするのが、幸吉の日常の習慣となりました。
そして妻の死から10年後。1905年、幸吉はとうとう完全な真円真珠の養殖法を確立します。幸吉がアコヤ貝の養殖にとりかかってから、18年の年月が経っていました。名実ともに真珠に関する発明の全てを成功させた幸吉は、1927年に渡米し、エジソンとの会見を果たします。その席上で、エジソンが幸吉の果たした功績を讃えたのが、次の言葉です。
「自分の研究所でできなかったものが二つある。一つはダイヤモンドで、もうひとつは真珠である。
あなたが動物学上からは不可能とされていた真珠を発明完成させたことは、世界の驚異だ」
◆誰もが造りだせなかった真珠を世界で初めて人工的に生み出したのは日本人です。名前は御木本幸吉。
世界の真珠をリードする
ミキモトの創業者であると同時に、彼は偉大な発明家でもあったのです。
真珠は、貝類が体内に取り込んだ異物をカルシウムなどで包みこむことで生み出される宝石で、人工的に真珠を貝に作らせる技術は不可能だと考えられてきました。その常識を覆したのが御木本幸吉です。三重県鳥羽のうどん屋の長男として生まれた幸吉は、やがて天然真珠の魅力にとりつかれます。
「この美しい真珠を、なんとか人間の力で作り出すことができないだろうか……」真珠は、実際に貝を開けてみるまで形成されているかどうかを知ることはできない上に、真珠を見つけるために貝柱を切られて口を開けられた貝は、無残にも息絶えてしまうのです。
この事態をなんとかしたいと幸吉はアコヤ貝の生態調査と真珠養殖のための研究を開始。1890年、幸吉32歳、妻のうめが26歳の時のことでした。海を利用するために、地元漁業者や漁業組合との交渉、役所との折衝など、技術以外の面でも大変な苦労がありました。
ところが、1892年、幸吉の養殖場に赤潮が押し寄せてきて、養殖中のアコヤ貝がすべて死んでしまったのです。再出発の資金をつくり研究を続けるのです。そしてついに1893年、真珠形成実験を行っていたアコヤ貝の中に、半円真珠が出来ているのを発見します。自信を得た幸吉は、さらに研究を重ね、1896年に真珠養殖法の特許を取得しました。……またも絶望……。
幸吉の良き理解者であり、最愛の妻であるうめが32歳の若さで病死してしまいます。それから妻の位牌をなでては感謝の報告をするのが、幸吉の日常の習慣となりました。
そして妻の死から10年後。1905年、幸吉はとうとう完全な真円真珠の養殖法を確立します。幸吉がアコヤ貝の養殖にとりかかってから、18年の年月が経っていました。名実ともに真珠に関する発明の全てを成功させた幸吉は、1927年に渡米し、エジソンとの会見を果たします。その席上で、エジソンが幸吉の果たした功績を讃えたのが、次の言葉です。
「自分の研究所でできなかったものが二つある。一つはダイヤモンドで、もうひとつは真珠である。
あなたが動物学上からは不可能とされていた真珠を発明完成させたことは、世界の驚異だ」