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愛し愛され
第1章 階段室にて


「歩こうか?」座っているさほ子に、博人は手を伸ばした。さほ子はその手を取る。

「うん」言って、さほ子は立ち上がった。そして素足のまま、微かによろめくように進むと、とても自然に博人の胸に、さほ子は収まった。

二一.五階の踊り場で、ほのかに酒に酔い、そして歩き疲れたふたりは、そっと抱き合った。

さほ子の髪とコロンの香りが、博人の鼻から、胸いっぱいに広がった。さほ子は、思いがけなくがっしりした体付きの博人の胸に、頬を押し付けた。

見知らぬ誰かが、階段室を降りて行った。息を切らせながら。ふたりは目を閉じたまま、そっとそこで抱き合っていた。誰かの足音が遠くに消えてしまうと、博人は答えた。

「失いたくないんだ。きみのことを。

 セックスしても、どこにも行かないって約束してくれるなら、今すぐにでも押し倒すよ」

半分は冗談で。そして半分は本気の言葉だった。しかし冗談と本気の境界線は、言った博人にさえ、さっぱり判らなかった。

さほ子は何も答えなかった。

その沈黙が、博人には耐えられなかった。それほどに、さほ子への想いが強くなっていたことに、いまさらのように気づいた。そして狼狽した。

「このままさらってしまいたいよ。どこか遠くへ」

つい、そう言ってしまった。それは明らかに、腹からの言葉として、口を出て行った。止められなかった。さほ子を、胸に抱いた状態では。

「うん」

と、胸でさほ子が言った。微かに首を縦に振ったのも、博人には感じられた。

博人は、失うと判っているものを得るよりも、大事な何かを温存することにした。

鼻でクスリと笑うと、彼は言った。軽い声で。

「うなずかないでよ。キスしそうになるよ」

うつむいたままのさほ子の声も、先ほどとは違って、色鮮やかで軽くなっていた。

「キスぐらいならいくらでもさせてあげるけど、そこでやめる自信がないから、しないでね」

ふたりでわらって、身体を離した。鼻の奥が、切なさでチン、となった気がした。

けれどもふたりは手を取り合って、残り二一階分の階段を降り始めた。

会えたことを倖せに思って、そして甘く後悔しながら、ふたりは階段を下りつづけた。




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