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歪んだ鏡が割れる時
第1章 第一章
何も聞こえない。

彼の言葉だけが耳にこだまする。

──かわいい透子、君が愛しいよ


ステージに向かい、無心に拍手を送っている筈だった。

なのに足元のアンクレットが熱を発し、その熱が身体の隅々に拡がっていく。

逃げだしたい。

彼の言葉から、声から、彼の吐息から。

拍手の波が途切れてきた時、彼は私の肩を抱いて引き寄せ、こめかみに唇を押し付けた。

え……。

時が止まった。

「座ろうか」

「は、はい」

それは、彼にとっては日常的なことなのだろうと思わせるほど、スマートな振る舞いだった。

内ポケットから取り出した眼鏡を掛ける仕草も、パンフレットに指を滑らせ、指揮者の経歴を読む横顔も、その何気ない一つ一つが、私を惹き付けて離さない。

なぜ、なぜ──。


休憩時間を迎え、会場はざわついていた。

「素晴らしいピアノだったね」

「ええ、感動しました」

私は、5分前の記憶を破り捨てた。

「あの、もっと怖い方だと思っていました」

「ん、私が?」

「はい」

べつに驚いた様子もなく、彼は眼鏡をポケットにしまう。

「よく言われる」

「やっぱり」

「ふふっ、まあ部下に信頼されるには、これぐらいでいいんじゃないかな?」

「厳しそうな上司さんですね」

「うむ、信頼してしまえば、あとは任せられる」

美波の予想は外れてなさそうだ。


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