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幸せの時効
第4章 逡巡
 春季と別れ、自宅に戻る。今までも時折湯島のことを考えることはあっても、それは過去の話を思い出して悔やむだけに過ぎなかったのが、あの日以来当時の感情が蘇る。
 初めて声を掛けた日、初めて抱き締められた夜、そして初めてのキス。初めて肌を重ねた日。もう引き返せないと涙した夜、湯島は私を抱いた。彼が妻帯していることを知ったのは、いつだっただろうか。左手の薬指の結婚指輪を見て、この世の終わりのような喪失感を感じた。だとすれば湯島に恋心を抱き、それを胸に秘めて接していた時だ。

 あの時腕を伸ばさなければいいものを、私は自分の感情に抗えず彼を求めた。彼は戸惑っていたが、私の伸ばした腕を掴み引き寄せた。抱き締められたとき、もう引き返せないと諦めた。彼の愛撫に酔い全てを彼に与え、同時に彼の全てを奪った。あの2カ月は今思えば砂上の楼閣のようなものだ。秋の到来とともに呆気なく崩れた。

 ホテルの一室で愛し合っていたところを、彼の妻が乗り込み私を激しく責め立てた。私は気が動転し、何が起きているかさえ分かっていなかった。ようやく事態を把握できた頃、彼は自分の妻を必死に宥めていたが、その光景がやけに滑稽に見えて、自分が情けなく感じたことだけ覚えている。
 裸の男が身重の妻を宥めている、その妻の前に裸の私が居た。それを今思い返すと笑えてしまう。苦笑いしか出ない。

 もう忘れたい。忘れよう、そう思いながら私は持ち帰った仕事に手を付けた。
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