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いじっぱりなシークレットムーン
第3章 Full Moon
 


「は?」

「私、ちゃんとしたお別れのご挨拶まだでしたので」


 そういえば、結城が一方的に挨拶をして帰ったような。確かに課長はなにも言ってなかったと思い、一度通話ボタンを押してまずあたしが応答した。

「あ、結城。課長に変わるから」

『は!? 課長って……』

「はい、課長どうぞ」

「ありがとうございます。もしもし、香月です。先ほどはご挨拶もせず、失礼致しました」

 あたしからスマホを渡された課長は、優雅に喋り始めた。結城がなにを言っているかわからないけれど、課長の穏やかな声が車内に響く。


「ええ、鹿沼さんが私の部下である限り、私に彼女を守る義務がありますから。彼女の意志がどうであろうとも、最後まで面倒を見るつもりですので、ご心配なく。それくらいの覚悟で、ここで課長として勤めてますので」

 途端に響く、キーッ。

 この生理的に受け付けない音は――。


「衣里、やめて!」


 隣で衣里が声も出ないほど笑い転げて身をよじり、きれいな色に塗られた爪をたてて、窓をひっかいていた。


 カリカリカリ、キーッ!!


 何度もやられ、社内が静まりかえった。運転手も車を止めて身を竦めさせているのは、この音のせいだろう。


 キーッ!!


 背中にざわざわとした悪寒を感じながら衣里を身体で押さえ込むと、車が動き、何でもないというように課長の乱れぬ声が再開された。


「いえ、なんでもありません。はい、それではまた明日」


 通話が終わりあたしにスマホが返ってきたが、課長の表情は随分お疲れのようだ。衣里のキーッにやられたのかもしれない。

「あ、次の角で。あのマンションなんで」


 自宅が見えてきて、あたしはそう運転手に言った。


「今日はありがとうございました。また明日」


 課長がなにか言いたそうに窓を開けてドアから降り立つあたしを見ていたが、満月になりつつある月が雲間から見え始めて、あたしは慌てて頭を下げて、衣里にも小さく手を振った。


「……おやすみなさい」


 そう言った彼によって上げられた窓に月が映り、課長の顔と重なった。

 九年前のように月と溶け合うことのない彼を、どこか感傷的に思いながら、小さくなるタクシーを見送った。 


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