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こじらせてません
第1章 捕縛
普段から、音だけにとどめておけば美しい名であるファーストネームではなく、ファミリーネームで呼ばれている。ミサが「気にしている下の名で呼ばれて、私は大変不快です」とハッキリ言わないまでも、決して麗しい機嫌はないことが対話者へ伝わるからだ。

いま、安原はキチンと、苗字でミサを呼んだ。

だから安原がミサの表情に疑念を持たされたのは、呼んだせいではない。

また、ミサは不機嫌な表情をしたわけでもない。

疚しかったのだ。

黒居ショックが、もう一つ落とした影は、ミサにとっては更に色濃かった。

黒居と由美子との間に、いなかる背徳があったかは知らない。さぞあらがいがたかったのだろう。少なくとも黒居は戒を破ったのだから、由美子の前では敬虔ではなかった。

いっぽう、ミサの前では実に敬虔だった。

十年間。
一切、手を出してこなかった。むろん、ミサから手を出したこともなかった。

そして黒居と知り合う以前、中高の校則には不純異性交遊を禁じる条文があった。

総合するとつまり、ミサには性経験がなかった。

特別、焦りはなかった。
黒居と迎えるだろう初夜に、経験を果たすのだろうと思ってきたからだ。

逆説的につまり、予定が狂ったから土曜からは焦っている。

今や二十九歳だ。
正確には、29.75歳だ。誕生日が迫っている。

いったい黒居は別れ話を切り出した時、この事実に対して、どれだけの罪の意識を感じてくれただろうか。

金曜の帰り道、未婚率の数字を引っ張り出したのは、結婚を焦ったからではない。

三十路になって独身である蓋然性が高いことには、大して焦っていない。かくなる事情があったのだから、自分は決して「こじらせて」いるわけではない。

というのも、ミサの手元には、既に調べていたデータがあった。

厚労省の関係機関の調査によれば、性経験のない女性の比率は、二十代後半で32.6%、三十代前半で31.3%である。

『三十歳の女性のほぼ三人に一人、少なくとも四人に一人は処女である』

ご安心召されよ?

もののサイトにも、この情報を提示の上、見る者の心の安寧を図るものが散見された。

しかし、調査結果をよく読まれたい。前提条件がついている。
「未婚の女性のうち、性経験がない」割合だ。できれば傍点がほしい。
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