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こじらせてません
第2章 馴致

さて、人懐っこいワンちゃんを連れる人は、ワンちゃんが提供した癒しという価値を、何か別の価値に交換したいと思うだろうか。
獣畜とペットの違いは、提供される価値が別の価値形態に交換可能か否か──というよりも、交換したいと思うか否かで決定される、とミサは思った。
獣畜なのか、ペットなのかは、彼らの種が何であるかということには依存しない。ライオンをペットにすることは可能であるし、ワンちゃんを獣畜として扱うことも可能である。人間都合の概念でしかない。
訊いてみなければわからないし、訊くすべもないが、やはり確信的に、対象の側には獣畜たる自覚も、ペットたる自覚もないのではないかと想像された。
そしてミサは、アキラがもたらしてくれる価値を、他の何ものかに交換したいかといえば、全身全霊で否定することができた。
何ものにも代えがたい。
よって、アキラはペットではあっても、獣畜ではなかった。
最終的に「すぐに突き止めた」のは結果であって、この時点で、ずいぶん遠回りしているように思えなくもなかったが、ともあれミサはそう類推したのだった。
改めて、「アキラはペットである」ことは認定することができた。
ということは、違和感の正体は、「調教する」という後句にあることになる。
「調教する」という連辞がペットに対して不成立であるのであれば、いったいどんな語用が相応しいのだろう。
調教は獣畜に対して用いられる語であり、獣畜は調教なしでは価値生産活動を行ってくれない。いっぽう、どこぞの人懐っこいワンちゃんを夢想するまでもなく、ペットは価値生産活動を能動的に行ってくれる。
「お手」と言われたワンちゃんは、オヤツを期待しているだけかもしれないが、能動的に前足を差し出す。
ワンちゃんが口周りを舐めてくるのは、親愛表現だそうだが、舐めろ、と命令されて、イヤイヤ舐める子は、訊いてみなければわからないし、訊くすべもないが、おそらくはいない。
本人──本犬という言葉は馴染みがない──が、たとえ癒しを意図していなくとも、人はその能動性に、癒しを見出しているのだ。
獣畜とペットの違いは、提供される価値が別の価値形態に交換可能か否か──というよりも、交換したいと思うか否かで決定される、とミサは思った。
獣畜なのか、ペットなのかは、彼らの種が何であるかということには依存しない。ライオンをペットにすることは可能であるし、ワンちゃんを獣畜として扱うことも可能である。人間都合の概念でしかない。
訊いてみなければわからないし、訊くすべもないが、やはり確信的に、対象の側には獣畜たる自覚も、ペットたる自覚もないのではないかと想像された。
そしてミサは、アキラがもたらしてくれる価値を、他の何ものかに交換したいかといえば、全身全霊で否定することができた。
何ものにも代えがたい。
よって、アキラはペットではあっても、獣畜ではなかった。
最終的に「すぐに突き止めた」のは結果であって、この時点で、ずいぶん遠回りしているように思えなくもなかったが、ともあれミサはそう類推したのだった。
改めて、「アキラはペットである」ことは認定することができた。
ということは、違和感の正体は、「調教する」という後句にあることになる。
「調教する」という連辞がペットに対して不成立であるのであれば、いったいどんな語用が相応しいのだろう。
調教は獣畜に対して用いられる語であり、獣畜は調教なしでは価値生産活動を行ってくれない。いっぽう、どこぞの人懐っこいワンちゃんを夢想するまでもなく、ペットは価値生産活動を能動的に行ってくれる。
「お手」と言われたワンちゃんは、オヤツを期待しているだけかもしれないが、能動的に前足を差し出す。
ワンちゃんが口周りを舐めてくるのは、親愛表現だそうだが、舐めろ、と命令されて、イヤイヤ舐める子は、訊いてみなければわからないし、訊くすべもないが、おそらくはいない。
本人──本犬という言葉は馴染みがない──が、たとえ癒しを意図していなくとも、人はその能動性に、癒しを見出しているのだ。

