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エリュシオンでささやいて
第1章 Silent Voice
「また、歌を聴きたいわ。あなたはこの近所に住んでいるの?」
天使は意味ありげに笑うと、さらさらとした長い髪を揺らしながら軽く頭を左右に振り、また歌い出した。
それはクリスマスでよく流れる合唱曲。
ベートーヴェン 交響曲第9番「歓喜に寄す」。
Freude, schöner Götterfunken,
(歓喜よ、美しき神々の煌めきよ)
Tochter aus Elysium,
(楽園から来た娘よ)
Wir betreten feuertrunken,
(我等は炎のような情熱に酔い)
Himmlische, dein Heiligtum!
(天空の彼方、貴方の聖地に踏み入る)
歌い上げた声は、……艶やかな男の声域(テノール)。
女の声から男の声まで、天使は様々な声域がある声を持っていた。
少し聞いただけで声帯模写まで出来る彼女は、天才だ。
彼女の歌声は、きっとたくさんのひとの心を救う。
歌うことで救済する天使だ――。
彼女は、尋ねても他の自分についての情報をなにひとつあたしに授けなかった。
「明日この時間また来るから教えて――」
そう言った時、ひとの声がしてサングラスをかけた恰幅のいい黒服の男が三人現われた。あたしに助けを求めるように片手を伸ばす彼女の口を、黒服のひとりが白いハンカチで塞ぐと、天使はぐったりとして、別の黒服の肩に担ぎ上げられて。
「これは夢だ。死にたくなければ、忘れろ」
三人目の男にナイフを喉に突きつけられ、嗄れた声に威嚇されたあたしは、ただコクコクと首振り人形のように頷くことしか出来なかった。
久方に芽生えた感情の〝恐怖〟に、あたしはどうしていいのかわからなかった。無感情であれば、恐らく死に対する恐怖もなかっただろうに。
地面に尻餅をついて涙を流すあたしは、ただ……あたしの心を救ってくれた天使が拉致られたのを、見ているしか出来なかったのだ。