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サイレントエモーショナルサマー
第29章 accelerazione
チカは、起きなさい寝坊助、と私を起こして食べきれないと言っているのに茶碗に山盛りの白米と出し巻き卵と納豆の朝ごはんを用意してくれた。味噌汁は細かく切った絹ごし豆腐で、出汁が効いていて美味しかった。
仕事が終わったら真っ直ぐチカの家に帰ってくることを約束して合鍵を預かった。もし、私の方が帰りが早くても気を利かせて料理なんかするなと言われ、彼女とは駅で別れた。
コンビニでコーヒーとちょっとしたお菓子を買ってからフロアに顔を出すと浩志と藤くんはまだ出社前だった。デスクにつき、PCを立ち上げていると村澤さんがにやにやと笑いながら近づいてくる。
「……なんでしょう」
「瞬間冷却のお前がいつの間にあんなことになってんの?」
「なんですか、瞬間冷却って」
「俺がお前に付けた仇名。にこにこ会話してたと思ったら連絡先聞いた瞬間、笑顔が消えて『御用の際は社内メールでお願いします』だもんなぁ…ほら、いま経理にいる香川、あいつ心折れたって言ってた」
香川?誰だそれ。はあ、と呟いてコーヒーを啜った。
「俺さ、中原の押し出しに賭けてんだよ。お前、昨日のあれ、どういうことなの?どっちと付き合ってんの?」
「ん?ちょっと待ちましょうか。賭けってなんですか」
「……そんなこと言った?」
「言いましたよ、浩志の押し出しに賭けてるって」
可能な限りにっこり笑って詰め寄ると村澤さんはびびった様子で白状した。藤くんの好き好き攻撃が始まった頃から部長と村澤さんの他に数名の男性社員の間で私が落ちるか落ちないか、それとも浩志と付き合っているのかを賭けの対象にしていたと言う。なんてやつらだ。人の恋路を面白がっている。
もっと聞くと藤くんに賭けているのは部長だけらしく、部長の一人負けだった場合高級焼き肉店で豪遊する予定だそうだ。
「なあ、どっちが優勢?」
「先輩ですけどぶっ飛ばしますよ。人が真剣に悩んでるのにゲームにしないでくださいよ」
「…分かった、俺が悪かった…だからその笑顔と拳を下げてくれ」
拳だけでなく、笑顔も下げろとは失礼な人だ。息をついて村澤さんを視界から追い出すと浩志が入ってくるのが見えた。デスクまでやってくると村澤さんは浩志になにか言いたそうだったが、私が睨みを利かせると、適当に朝の挨拶をしてデスクへと戻っていく。