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行こうぜ、相棒
第8章 Walk Between Raindrops

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「俺はそもそも東京生まれでね」柏木は言った。「あの時はアメリカに留学していて、テロを逃れたんだ。両親と、お腹に赤ん坊のいた姉が、あの街に住んでいたよ」
「私の両親はここの人なの。でもあの時はたまたま、父の東京出張に母がついて行って。歌舞伎を見るって喜んでたわ」
柏木は、グラスを掲げた。
「献杯だな」
ふたりは黙ってグラスを持ち上げると目を閉じて、遠い日のことを思った。
「覚えいるか? 『気楽な一年』のこと」
「ええ、私は高校生だったわ。妹とよくくだらない遊びをしてた」
「2017年。俺はもう、ボストンにいたよ。でもネットが伝えてくる日本のニュースはセレブリティの不倫と政治家のお粗末な烏合の集ばかり。CNNでは半島からのミサイルの話ばかりが報道されるから、その日本からのニュースの現実離れした様子に呆れていたよ」
2018年の事件の前年、当時の北朝鮮からは頻繁にミサイルの試射がなされていた。しかし当時の日本はそれに対して本格的な対策を打つでもなく、「遺憾の意」を表明し続けた。その現実に抗(あらが)うように、メディアは幼稚なスキャンダルばかりを垂れ流し、後の人々に『気楽な一年』と呼ばれるようになった。日本の気楽な幼年期の最後の一年だった。
「あの頃からずいぶん遠いところに来てしまった気がするわ」
「俺もそうさ。あの頃とってた国際政治学のアドバンス講座からずいぶん遠い仕事を重ねて、やっと振り出しに戻った気がするぜ」
「ずいぶん遠い仕事って?」
「鉛玉がビュンビュン飛びかうような、リアルでハードな職場だったよ」
そう言って苦笑する柏木の言葉を、単なる比喩だとその時のエリは思っていた。

