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貴方だけに溺れたい
第7章 貴方に逢いたい
"願わくば 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月の頃"
気が付けば、歩調は速くなっていた。
桜に近付くにつれ走り出し、目の前の光景を見つめながらふと西行法師の和歌を思い出していた。
"願うことならば(旧暦)2月15日の満月の頃に満開の桜の下で死にたい"
学生時代の事だ。その歌を読んだ時、葵は桜の下で死を待つ武士の姿を想像した。
戦で重傷を負った武士が桜の木の根元に横たわり、満開の花と、雪のように舞い落ちてくる花弁を見つめながら死んでいく。
勿論その歌が武士の気持ちを詠んだ物では無いと分かってはいたが、葵の想像する桜の木にはそんな情景を想起させる物悲しさがあった。
そしてその時に描いた桜の木が、いま目の前にあるシダレザクラに似ていた。
大きく雄大でありながら儚くもあり、哀しみもある。
何十年、何百年の間、その場にあるのかは分からないけれど、夕暮れの中に佇むその姿には凛とした威厳と、静かな寂しさが宿っているように思えた。
桜の木にたどり着くと、葵はその幹に触れ、天を見上げた。
紫がかった空を覆うように伸びた枝からは、今にも散ってしまいそうな花が見下ろし、ひらひらと舞い散る花弁は、残された時を刻むように静かに落ちていく。
綺麗だと思った。
しかし切ないような苦しみが、葵の中で膨らんでいた。
言葉では上手く言い表せないけれど、一つ二つと舞い落ちていく花弁のように命は削られていくようにも思えた。
そして無意識のうちに桜を見上げる武士の姿を想像し、やがて武士は遊女に変わり、戦時中の兵隊や残された家族、恋人の姿。女学生や活動家、現代を生きる人々の姿が時代を振り返るように浮かんできた。
どうしてかは分からない。
ただ脳裏に浮かぶ誰もが、今の葵と同じように桜を見上げ、自らの運命と向き合おうとしているように感じていた。
勿論、昔を生きた人々に比べれば、現代を生きる自分の辛さなんて小さなものだろう。
だけど何時の時代でも、人は桜を見上げて、その美しさや儚さに憂い、慰められていたのではないかと思った。