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貴方だけに溺れたい
第9章 喜びと切なさと、後ろめたさ
"事務所"と札の付いたガラス扉の前に立つと、事務机に座っている女性の姿が見えた。
年は60代くらいだろうか。ウェーブのかかったショートカットにメガネ。花柄の割烹着のような作業着姿だ。
この人が先代の奥様?
森川が扉を叩くまでの間にぼんやりと予想はしたが、こちらに気付くなり「あらぁ~!」と声を張り上げた女性の反応は一瞬にして葵を狼狽させた。
「綺麗な子!ちょっと佳代子さん、早く来てみなさいよ。ちょっと佳代子さーん?」
その声は扉を開けた事で更に大きくなったが、森川からすれば、驚くほどの事では無いのだろう。
「なんですって!?」と奥から現れた女性と事務の女性に「どうも」と挨拶をしてから、葵に向かって片方の眉を上げて見せた。
問題無い?任せとけ?
ジェスチャーの意味はよく分からないが、葵は一段高い位置に並ぶ女性2人に「こんにちは」と挨拶をしながらも戸惑いを隠せずにいた。
当然だろう。
何しろ2人の視線は目の前に立っている森川を飛び越えて葵に向けられ、その顔には満面の笑顔。
どうすればいいの!?
「彼女は友人で、工房と温室の方を見て貰おうと思って、一緒に来て貰ったんです」
「あらそう。大歓迎よ。今日は有紀ちゃんもいるし、色々見てってちょうだい」
「そうさせて貰います。あと堤さん」
「はいはい」
「別件で申し訳ないんですけど、うちの樋口が発注してたブルゴーニュの数調べて貰えますか?もしかしたら足りないかもしれない」
「本気?ちょっと待ってて」
しかし森川の対応は早かった。
淡々とした対応で2人を引き離し、佳代子と呼ばれていた女性__こちらが先代の奥さんらしい__に説明をした後に、興味津々な表情で葵を見つめる堤を元の場所へと戻した。
残った佳代子は森川と話しつつも葵に興味があるようだったが、露骨な視線を向けるわけでは無かった。
けれど、油断してはいけない……。