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どうか、その声をもう一度
第2章 雨の中、邂逅
「…悪い。俺、傘取ってくる」
「あ、いや、俺の貸しますよ」
その声を無視して、店内に戻り、流れるようにバックヤードに向かった。鞄の奥から、今朝、彩夏に持たされた折り畳み傘を取り出す。タオルも引っ張りだして、2人の元へ戻ると、諒がなにか話しかけているようだったが、沙英は俯いていた。
「はい。風邪引くといけないし、豆も傷むだろうから、これ使えよ」
「………」
冷えた手に傘を握らせる。ゆったりと俺を見上げた顔。やっぱり、沙英だ。小さく唇が動く。なにか言っているようだったけれど、なんと言ったのかは分からなかった。
「なあ、沙英…」
呼びかけると、彼女の眉間に皺が寄った。苦しげな表情は見たことがない。記憶の中の沙英はいつも笑っていた。友達とこんなことをした、とか、学校でこんなことがあった、とか、そんなくだらない話を笑って聞いてくれていた時の顔。それから、あの小屋の中で身体を重ねた時の熱っぽい表情。
彼女はなにも言わないまま、頭を下げたかと思うと傘を広げ、雨の中を再び走り去っていった。
「元カノとかそういうやつですか?」
「……違う」
「じゃあ、初恋の人とか?」
「お前なぁ…」
溜息交じりに言いながら看板を店内に戻す。身体はすっかり冷え切っていた。冷たくなった指先に、ほんの僅か触れた彼女のコートの感触が甦る。あれは、沙英だ。間違いない。そして、彼女は俺を覚えている。それなのに、何故、なにも言わなかったのだろう。
店内の清掃と帰り支度を整え、店を出る。雨粒はいまだ忙しなく地面を叩いている。諒の大きなビニール傘に入れてもらい、駅までの道を急ぐ。
自宅最寄り駅に着いてみると、雨は忙しなさを増していた。駅の売店でビニール傘を購入し、帰路に着く。頭も、胸も、静かながらに興奮していた。
だが、自宅に戻るとその興奮は急速に冷えていく。例えば、玄関に揃えられた彩夏の靴を見たり、それから洗面所の彩夏の歯ブラシを見たりとか。俺の生活の中に溶け込んだ彩夏の気配が、思いがけない再会への高揚を責め苛んでいる。
「………ごめん、彩夏」
リビングで項垂れる。彩夏、ごめん。口の中で転がしながら瞼を下ろすと、脳裏には驚きに目を瞠った沙英の顔が浮かぶだけだった。