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どうか、その声をもう一度
第4章 愛と罰
音の聞こえ出しを探してジョグを動かしていた手を止めたのはディスプレイの隅に社内チャットの吹き出しが表示されたからだった。私の1年あとに入社した後輩、毛利ナツメちゃんが社員に浸透させてくれたツールは私と他の社員たちとのコミュニケーションに一役買っている。
[沙英さん 今日のランチ、例のパン屋さん行きましょうよ]
ナツメちゃんからのかわいい絵文字付きのメッセージ。思わず眉間に皺が寄ったのが分かる。彼女が言う例のパン屋とは会社から徒歩数分のところに新しくできたベーカリーカフェのことだ。4日前の今週の月曜日、社員たちが飲むコーヒー豆を買いに行った帰りに、その店の前を通りかかった。
[ごめん、ちょっと作業遅れ気味だからまた今度行こう]
[了解です!じゃ、来週!!!]
私がメッセージを打ち込んでエンターキーを押すと数秒と経たずに返事が来た。来週か、と思う。きっと私は来週になっても同じ文言を繰り返すだろう。
―傘、返さなきゃ…
あの日、彼が貸してくれた黒い折り畳み傘はデスクの引き出しの中に仕舞ってある。息苦しさを感じ、デスクの片隅のマグカップに手を伸ばす。今週は深入りのイタリアンロースト。冷えたコーヒーを飲むと、つい溜息が漏れた。
彼には、もう二度と会うことなどないだろうと思っていた。それがまさか、あんな所で会うことになるなんて。
18歳のあの夏の日の記憶が急速に蘇ってくる。彼はあの頃より大人になって、顔つきは幾らか精悍さを増していた。
最後の筈だった。最後の為に、私はあの離島で短い夏を過ごすつもりだったのだ。最後にならなかったのは彼に出会ったからだ。
秀治。ちゃんと、覚えてる。毎日の出来事を話すあなたの顔はきらきらと輝いていて、私はそれを見るのがとても好きだった。島の暮らしはつまらない、面白いことなんてないんだよ、と言いながら、彼は日常の中の些細なことをとにかく楽しんで暮らしているように見えた。