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どうか、その声をもう一度
第5章 ひびのおと
帰らないで、沙英さん、お願いです、と必死に食い下がるナツメちゃんと不機嫌そうな表情の沙英。俺と諒はなんと声をかけたらよいのか分からないまま2人の攻防を見るだけだった。10分かそこらで沙英の方が折れたらしく、一先ず食事をすることになった。
諒の従姉のツテで奇跡的にイルミネーションをきれいに見られる席を押さえてあった洒落たスペイン料理の店。窓ガラス一枚を隔てて目の前に広がる色とりどりのイルミネーションに夢中の諒とナツメちゃんを尻目に今度は俺が落ち着きを失くす。
「さ、沙英…えっと、なに飲む?」
ドリンクのメニューを開いて沙英の方へ差し出す。まだ怒っているのか、戸惑ったままなのか、沙英の表情は浮かなかった。細い指がメニューの上を滑り、フランボワーズの味が付いたベルギービールで止まった。
「あの、さ…沙英、その…俺のこと、」
「あっ、沙英さん、リンデマンスですか?私もそれにします」
「それ美味しい?俺も同じのにしようかな」
「男性にはちょっと甘くて物足りないかもですよ」
「いいの、俺甘いの好きだから」
このタイミングで割り込んでくるのかよ。じろりと諒に視線をやってから、沙英が選んだビールを3つと、俺は店員のおすすめの苦みが強いビールを頼んだ。
料理を選ぶ間も、それらが運ばれてきてからも沙英は一言も口を利かなかった。どうやらナツメちゃんとの意思の疎通は取れているようで、彼女があれこれ声をかけると、瞬きや頷きで応じている。
俺のことは警戒しているらしいのに諒に対してはその必要がないと判断したのか、ナツメちゃんを真似てあれこれ話しかける彼に同じく表情の変化や身振り手振りで応じていた。
食事とアルコールがほどよく進んだ頃、沙英が席を立った。手洗いの方へと消えていく背を見送ってから、スケートでもやろうかと諒と盛り上がっているナツメちゃんに向かって口を開く。