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どうか、その声をもう一度
第5章 ひびのおと
「あのさ、聞きづらいは聞きづらいんだけど、沙英って…」
「ああ…ですよね…私も詳しくは聞きづらくて知らないんですけど…沙英さん、喋れないんですよ」
「それって、どういう…」
「ほんとに私も知らないんです。確か大学の頃から喋れなくなったとかで…。でも、普段はスマホとか社内チャットとかでコミュニケーションも取れるし、沙英さんね、文字打つのすっごい速いんですよ」
それにね、優しくて、仕事も早くて、教え方も上手くて、私の大好きな先輩です、とナツメちゃんはにっこり笑った。
沙英が、喋れない?鈍器で後頭部を思いきり殴られたような衝撃が俺を襲った。なぜ、声を失くしたのだろう。精神的なものか、それともなにか病気にかかったとか。
ぐるぐると考え出すと、耳の奥で俺の名前を呼んで、俺の話を聞いて楽しげに笑っていた声が甦ったような気がした。それから、大人になろう、と俺を誘惑したときの艶やかな声。
少し経って戻ってきた沙英はメニューを開くとナツメちゃんにデザートのページを見せていた。カタラーナを指さした沙英に、ナツメはちゃんはにこにこと笑って、じゃあ私はトリハスにするんで半分こしましょっか、と告げる。
食事のあとは諒とナツメちゃんの希望でスケートをすることになった。食後にそんなのやだよ、と渋ると諒は俺のことを心が老けていると笑う。
「くそ…今に見てろ」
「盛大に転んでくれたら面白いんでずっと見てますね」
やりたがっただけあって見事な滑りっぷりのナツメちゃんに反して、沙英は手すりにつかまってかろうじて立っているレベルだ。不安そうに俺を見る目。黒い、深い、海。その目を俺は知っている。あの夏の日、俺を見つめて、俺を見ていなかった目だ。
「手、貸しなよ。大丈夫、転ばないから」