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どうか、その声をもう一度
第5章 ひびのおと
ずきずきと鈍く痛む、胸。もう、沙英は俺が触れていい人ではない。
「沙英?」
響いたのは静かな男の声だった。あの夏の沙英の声と波長が似ている。声の方へ視線をやると、切れ長の目が印象的な背の高い男が立っている。短く整えた黒髪。白いニットがよく映えていた。
「た、隆也さん!えっと、待ってください。いろいろ説明を…」
「君と出かけるっていうから許したんだけど、どういうことかな」
「違うんです。沙英さんが黙ってたわけじゃなくて、私が沙英さんをだまして…その…」
ナツメちゃんが隆也さんと呼んだその男は片手にケーキ屋のものらしき紙袋を持っているだけだった。ゆっくり、ゆっくり、距離を詰めてくる。揺れるコートの裾。背後の沙英が身体を強張らせたような気がした。
「帰るよ、沙英」
「………」
盗み見た沙英の顔は蒼白だった。俺が見ていることに気付いたらしく、声を失った唇がわななく。なんと言っているのだろう。
「秀治さん?」
「秀治?そうか、君が…」
「俺のこと、知ってるんですか」
「まあね。君とだけは会わせたくなかったよ」
俺を呼んだ諒の声に男は反応した。冷たい視線が俺を突き刺す。ふ、と息を吐くと俺の身体を押し退け、沙英の手を掴んだ。びくりと震えた沙英の目は俺を見ている。
「待てよ。嫌がってるだろ」
「君になにが分かる」
「分かるだろ。どう見たって怯えてる。そんなやつに連れて行かせてたまるかよ」
「悪いことをした子供は親に怒られることを察して怯えてみせる。それと一緒だ」
吐き捨てるように言うと、沙英の腕を引いて歩き出そうとする。俺が追いかけようとすれば、こちらを振り向いた沙英がそっと首を横に振った。明らかな拒絶だ。
だんだんと小さくなっていく2人の背中を残された俺たち3人は見送ることしかできなかった。