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あの星に届かなくても
第5章 走りだした焦燥
店舗裏に自転車を置き、通用口からバックヤードを抜けて休憩室の扉に手をかけたとき、中から紗恵の笑い声が聞こえた。
そっと扉を開け、音を立てずに入った慧子の目に映ったのはスレンダーな後ろ姿。奥の部屋に続くスライドドアの開いた隙間を埋めるように寄りかかり、紗恵は部屋の中にいる人物となにやら愉しげに話している。
「やだぁ、冗談よ、冗談」
「そういう冗談はやめてください」
抑揚のない冷たい声が聞こえ、そこにいるのが市川だとわかる。
「私、あのあとなかなか寝つけなかったんだからね。あなただって思い出してたでしょ?」
「……思い出してません」
「あ、今ちょっと思い出してる」
「違います」
テンポのいい二人の言い合いは、こちらから声をかけにくい親しげな雰囲気を醸し出している。話の内容もなんだか深い間柄のように思え、胸を疼痛が襲う。だが、このまま無言でいるわけにもいかない。
慧子は、紗恵の背中に向け「お疲れさまです」と呟いてみた。ふっと振り返った彼女は不意をつかれたような顔する。
「あっ、慧子ちゃん」
少々ぎこちなくそう言ったあとに彼女が見せたのは、いつもと同じ上品な笑み。慧子もへらりと笑ってみせれば、紗恵はどこか安堵したような表情を浮かべ歩み寄ってきた。
「昨日は慧子ちゃんが休みで寂しかったよ」
「えー、そんな大げさな」
「本当よ。ま、市川くんのほうが寂しがってたけどね」
いたずら好きな猫目が弧を描く。すると、紗恵によって一度は閉められたスライドドアがゆっくりと開き、デスクチェアに座った市川が顔を覗かせた。
「またそういう子供みたいなことを……」
呆れ声で言うと、眼鏡の位置を指で直しながらこちらに目を向ける。
「お疲れ」
「お、お疲れさまです」
「今日もよろしく」
「はい……」
小さく返事をすれば、市川は薄い笑みを返してドアを閉めた。