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あの星に届かなくても
第5章 走りだした焦燥
「あ、すみませ……」
「いいよ。ゆっくり探して」
優しい低音。明るくなった手元から少し視線を外せば、すぐそばに市川の脚が見える。意図せずうるさくなる心臓の音を呪いながら、探しているのかいないのか自分でもわからなくなるほど乱暴に手を動かす。財布や携帯、ポーチなどをかきわけてバッグの底を探るが、やはり出てこない。
不意に、くすりと笑い声が降った。
「焦りすぎ」
市川は一言呟くと、くつくつ笑う。極度の羞恥心に押しつぶされそうになった慧子は、不毛な鍵探しをやめた。
「あの……家にスペアキーがあるので、もう大丈夫です」
「あ、そう」
「自転車は今日だけここに置かせてください。私、歩いて帰りますね」
「ああ、だったら送るよ」
その言葉に思わず顔を上げれば、青白い光に晒される市川の無表情が少しだけ緩む。
「暗いし危ないから」
「でも、道に出れば一応外灯あるし、この時間ならほとんど人なんて歩いてませんよ……」
「だから危ないんだろ。ほら、行こう」
携帯のライトを消した市川は車に向かって歩きだす。明るさに慣れていた目が突然光を失い、一瞬にして闇に取り込まれる恐怖を覚えた慧子は、すがるような気待ちで市川を追った。
助手席のドアを開けると、ルームランプの灯る車内が目に入った。色気のある赤褐色のシートだ。
「……失礼します」
「はい、いらっしゃい」
運転席から返された声は落ち着きはらっている。慧子はぎこちない動作で助手席に座り、ドアを閉めた。
静まり返る車内。上質なインテリアに身を置く高揚感と、妙に落ち着かない気持ちが心の中で暴れる。気づけば紗恵の車はとっくにいなくなっていて、走り去るその音が耳に入らないほど焦っていたのだと実感する。こんな調子では市川に笑われても仕方ないと肩を落としながらシートベルトを引くと、ついにルームランプが消えた。