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あの星に届かなくても
第5章 走りだした焦燥
内心でひどく混乱しながらシートベルトを着けようとするが、手元が狂ってバックルにうまく入れられない。苦戦していると、市川が慧子の手ごとそれを掴み、ぐっと押し込んだ。かちゃりと音が鳴り、その手は離された。
「あっ……ありがとうございます」
「いいえ」
頭にじわりと響いた低音と、前髪にかかる息が、その唇の近さを物語る。すぐそこにあると思うと顔を上げられない。
「あ、そうだ。これオーバーンですよね。かっこいいなぁ」
俯いたまま、慧子は苦し紛れに座席を触りながら言った。シートにもたれ、しっとりとなめらかな感触のナッパレザーを撫でていると、いくらか気持ちが静まってくる。市川からの返答はない。おかしな行動を始めた女を不気味に思っていることだろう。
しばらく続いたその空気感は、市川の小さく噴き出す声によって崩された。彼はもう限界だとでもいうように笑いはじめる。
「……なんですか」
「いや、シート触ってうっとりしてるから、つい」
「あ、車の中べたべた触られて気持ち悪いですよね。すみません」
「それは構わないよ。おもしろいし」
「おもしろいって……」
ぼそりと呟けば、またくつくつと笑われた。
「市川さんて結構よく笑いますよね。ふだんからそうやって笑えばいいのに」
むっとして反撃すると、市川は「そうだね」と苦笑まじりに答え、こう続けた。
「望月さんと話してると自然に笑っちゃうんだよ」
「え、あ……私は、車に興奮するおかしな奴ですからね」
「車に色気を感じられる人、かっこいいと思うけど」
「市川さんは変態ですか」
「お互いさまだろ」
無言で抵抗を示すと、市川が今度は鼻で笑った。
――馬鹿にしたな、鈍感眼鏡。
慧子は口から出かかった言葉を心の中で呟いた。その気まぐれな言動にこちらがいちいち振り回されていることなど、このマイペース男が知るわけがない。