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胸懐の本棚
第1章 胸懐の本棚
医療用麻薬を使用する緩和ケアに比して、延命治療は苦しさをともなう。
今まで治療の副作用に苦しんだにもかかわらず改善が見込めないとなれば、痛みをコントロールした安らかな死を選びたくなるのは、至極当然であろう。
死を前提とした究極の選択で、ピストルかナイフかと詰め寄られてナイフを採るものはいない。
担当医を交えて話し合った末、哲夫は、弱々しくたなびく美里の命の尾に鋏(はさみ)を入れるような思いで、提示された同意書に捺印した。
すがるものから見限られ、抗う術を放棄せざるを得ない美里が哀れでならなかった。
その帰り道、哲夫は禁を破った。
酒屋で強いウィスキーを買い、店先の車止めに座り込んで毒でも呷(あお)るように飲んだ。
美里が入院してから続けてきた断酒ごときに、一縷(いちる)の望みを抱いていた自分を嘲笑した。
飲むほどに、命を奪うべく美里の体内で暴れ続ける癌細胞への憎しみがこみあげてきて、あらかた飲み干した酒瓶を力任せに地面へ叩きつけた。
ただならぬ大きな音で酒屋から走り出てきた若い店員に、酔った勢いで悪態をついたのかどうか、店先から追い払われた。
朦朧としながらさまよい歩き続けた哲夫は、怒りと悲しみに押しつぶされ、行き倒れのように道端へ崩れ落ち、人目をはばからず泣いた。
亡くなる前の日、ものも言えなくなるほど衰弱した美里は、弱々しくまぶたを上げて、かたわらに座る哲夫と目をあわせるだけになった。
やせ細った手足をさすってやると、美里はかすかに目元をゆるませて微笑むような表情をみせたが、それもいっときのことで長く続かず、やがて目をあける力すら失っていった。