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胸懐の本棚
第1章 胸懐の本棚
『そうか……』
一年ものあいだ、素知らぬ顔で何の落ち度もない女の心をかき乱していたかもしれない―――。
その可能性があることにゾッとした。
しばし慄然とした哲夫は、同時に、ある感情が胸底をこじ開けて這い登ってくるのを感じて、にわかに狼狽した。
『そやけど、僕、禿げかかっとるのやで……』
いや、ちゃう。動揺しているとはいえ、何を訳のわからんことを言っているのか。
思考の一端が、つい口からこぼれてしまった。
言うべきことはそれだけではないのに、思いつく言葉はすべて的外れで、喉の奥へと流れ落ちてしまった。
目の前で顔をうつむかせる真紀に、しばらく無言のまま視線を当てる。
彼女からは少しのやましさも感じられない。
やましいのは自分だと、哲夫は思った。
大人なら、この場で語りあわねばならない事柄がある。
それを避けようとする自分をずるいと思った。
『僕は、情けない男やな。
どっかで折り合いつけんといかんのに、
今まで逃げてきたんやな』
何かを白状するような気持ちでそう言うと、いたたまれず席をたった。
自分を騙しきれるかどうかの土俵際から、足が出たのを感じた。
『迷惑ですか?』
顔をもたげた真紀の潤んだ目が、部屋から出て行こうとした哲夫を立ち去りがたくさせた。
『迷惑やなんて、そんなことあるかいな。
僕かて、嬉しいと思てる。
ただ……』
真紀は哲夫の言葉を待った。
『思い出してまうんや』
女々しい言葉を口にしたとき、哲夫は、悲しい視線を背中に感じた。
美里を愛した記憶にどこかでケジメをつけなければ、自分も含め、自分にかかわる誰もが幸福になれないことを理解した。