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胸懐の本棚
第1章 胸懐の本棚
 

美里が死んで十年になる。
哲夫よりふたつ下の妻は、若く美しいままこの世を去った。
夫婦だった時間は七年にもならないが、いがみあったことは一度もなく、彼の人生におけるもっとも輝かしく充実した年月だった。

哲夫の起ちあげた設計事務所が、景気の波に敏感な建築業界で十五年近くやってこれたのは、個人経営ならではの小回りのよさや、哲夫の卓抜したデザイン能力の賜物であるが、なによりも妻の支えがあったことが大きい。
美里は、けっして贅沢になじもうとしない、おとなしいが芯の強い女だった。
そしてどんな状況にも、まず笑顔を優先する妻だった。

哲夫が定収入を失ったときでさえ寛容に受け止め、一言の文句も言わなかっただけでなく、そればかりか、経理業務にうとい哲夫のために、専業主婦の立場をあっさり放棄して専門学校へ通い、短期間のうちに簿記資格を取得してみせ、起業したばかりの哲夫を仕事に専念させた。

陰に日なたに夫を支え続け、いちばん苦しい時期を乗り越えたと安心した矢先、稼業を軌道に乗せるのが最後のつとめであったかのように、三十二歳の若さであっけなく死んだ。
今なら少しぐらいは楽をさせてやれるのにと、苦労ばかりかけた自責の念が哲夫の中で未だ消えずにくすぶっている。



 
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