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胸懐の本棚
第1章 胸懐の本棚
翌朝、哲夫はアラームが鳴る前に目を覚ました。
煮え切らない気分で体を起こし、目覚めたとたん崩れ始める夢の記憶を、むりやり建て直そうとこめかみに力を入れたが、高田真紀の姿は、薄れゆく記憶の霧の中に消えていった。
いつものように背広に身を包んで家を出る。
製図台に張りついて袖を汚していた昔と違い、マウスとキーボードを駆使して図面を引く時代に、作業着を羽織ることはほとんどなくなった。
昼から重要な顧客との打ち合わせに出かけるが、事務所から出ない日でも堅苦しい背広を着込んで出勤するのは、公私の切り替えにメリハリをつけるためでもある。
哲夫は個人事業主になってすぐ、公私の境目が曖昧になることに気づいた。男やもめになってからはその傾向が強くなった。
タイムカードに縛られない生活は気楽だが、世間なみの生活様式をある程度なぞっておかないと、独り者の日常生活などあっというまに荒んでしまう。
不況にあえぐ建設業界にリストラの嵐が襲いはじめたころ、課長職に未練を残すことなく早期退職枠に手を上げた。
退職金とわずかな蓄えを軍資金に設計事務所を起こし、一級建築士と看板に掲げてはいたが、開業当初の業務の実際は、居宅の小さなリフォームがほとんどだった。
ただの図面引きに終わるのが嫌で起業しただけあって、哲夫が手がけた改修物件は独創性が評価され、やがて店舗設計を得意とするようになると、大手デペロッパーからの仕事が増えだした。
近頃はプランニングと役所回りに追われて手が回らなくなり、作図もパースも外注に投げている。
起業した頃には考えられなかった忙しさではあるが、今の哲夫にとって、仕事は情熱的に取り組めるものではなくなっていた。