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滲む墨痕
第3章 雪泥鴻爪
女将はふと目を伏せると、すっと後ろを向いて会場内に歩いていってしまった。しばしのあと、女将の登場を歓迎する客たちの声が聞こえてきた。
瞬間、頭がぐらりと揺れ、視界が白くぼやけた。
「……っ」
潤は近くにある壁にもたれかかり、手のひらで顔を覆った。肩で息をしながら、込み上げる吐き気に耐える。
そばを通る仲居の誰もが殺伐とした空気を察しながらも、潤に歩み寄ってはこない。あたりには右往左往する足音が行き交うだけで、それはみなが潤の異変に気づいたうえで仕事を優先させていることを示していた。
歪む意識の中、潤は思った。若旦那の妻でありながらほかの従業員たちと同じ立場として働く自分は、仲居たちにとってはかえって扱いづらい存在だったに違いない。考えてみれば、そんな仲居たちの中で自分に分け隔てなく接してくれたのは美代子だけだった、と。
しばらくそのままの状態で息を整えてから、潤は壁を伝ってゆっくりとその場を離れた。
重い足取りで本棟の更衣室に戻ると、畳の上に膝から崩れ落ち、声を殺して泣いた。着物の淡浅葱色が、ぽたぽたと落ちる雫で濃い涙の色に染まっていった。