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いつかの春に君と 〜 番外編 アンソロジー集〜
第1章 三日月夜にワルツを
伊織は切れ長の瞳を眇めた。
「…今、なんと…?」

父親は相好を崩しながら、話を続けた。
「私には娘しかいなくてね。…息子が欲しかったよ。
お前が産まれた時に、男の子だと聞いて本当は引き取りたかったんだ。
だが、妻が烈火の如く怒り狂ってね。
妻は私の銀行の大株主の娘だ。
昔から、妻には頭が上がらんのだよ」
苦々しく唇を歪めながら、新しい葉巻に火を点ける。

「だが、妻も年を取って大分丸くなってきた。
お前の話をしたら、渋々だが了承してくれた。
…菊乃が亡くなっているのも、寛容になる要因になったんだろう」
何の痛みもない表情で言い放つ。

腹の底から湧き上がる例えようもなくどろどろとした怒りや憤りや…胸を押し潰されそうな悲しみに伊織は必死で耐えていた。
「俺を引き取ってどうするつもりなのですか?」

「私学に入り直して、帝大を受けろ。お前なら現役で受かるはずだ。
そして我が銀行に入り、私の力になってくれ。
…娘婿は男爵の血筋の男だが、ぼんくらな上に道楽息子でな。
あんな奴に家の財産を食いつぶされたら敵わん。
お前なら良いブレインになってくれるだろう。
…その美男子ぶりなら良い縁談が降るように舞い込むぞ。
士官学校など辞めろ。国に命を捧げてどうする。
もったいない。どうせなら私の銀行に捧げてくれ」

怒りが収まると、乾いた笑いが止めどなく沸き起こった。
…やはりそうだ。
愛など、どこにもなかったのだ。
この男の…どこを探しても、俺に対する愛など…。
どこにもなかったのだ。

無機質に笑い続ける伊織に、父親は怪訝そうな貌をした。

「…最後に一つだけお伺いします。
俺がもし、首席でなければ…貴方のお眼鏡に適う息子でなければ、貴方は俺を引き取る気になりましたか?」
「…そ、それは…」
父親は現金に口籠った。

伊織は立ち上がった。
「もう結構です。俺は貴方の銀行を存続させる為の道具じゃない。
俺は強い軍人になります。
一人で、誰の力も借りずに」
「伊織…!」

伊織は端正な唇に冷たい笑みを浮かべた。
「気安く呼ばないでいただきたい。
…お別れです。もうお会いすることもないでしょう」

そうして伊織は、その男を一度も父とは呼ばずに、部屋を辞したのだった。



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