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第5章 　情事の香り　社長　幸一

　「アッ」と美紗は思わず声を上げた。

　「吉沢さんですか」

　「先程は気づかなかったようですね」

　吉沢は笑って答えた。

　「エッ、ということは吉沢さんが社長・・・」

　美紗はようやく事情が飲み込めた。
　それにしても、あのパンをかじっていた男がこの会社の社長とは。
　美紗はまだ半信半疑だった。

　「瀬川さん、時間があったら、この間のイチゴのお礼に夕食でもご馳走させてもらえませんか」
　「喜んでご一緒いたします」

　美紗は思いがけない出会いに胸のときめきを覚えた。
　あの時は窓際族ぐらいにしか思えなかったのに、「社長」と聞いただけで印象が大きく変わった。
　
　中華街に着くと運転手がドアを開けて、美紗は車を降りた。
　運転手つきの車に乗るのは美紗にとって初めての経験。セレブな世界の人間との交流に気分が上ずった。
　吉沢は美紗を老舗の中華料理店「清香楼」に案内した。
　二人は案内された趣のある中華風個室に入った。
　じきに運ばれてきた料理に舌鼓を打ちながら互いのことを紹介しあった。

　「ご主人は癌で亡くなられたそうですね」

　吉沢は夫に先立たれた美紗に同情した。

　「吉沢さんのご家族は・・・」

　美紗は、一人山に登る吉沢の家族が気になった。

　「はい。妻と子ども二人。子どもたちはアメリカに留学しています。妻は京都です」
　「京都」
　「ええ。横浜と京都、これが私たち夫婦には丁度いい距離のようです。だから、あなたと同じ一人暮らしです」